7月某日。
夏休みが始まったばかりの暑い日曜日、野球をするために近所のいつもの場所まで歩いた。学校の横の下り坂に沿って一段下がったところにあるグラウンドで、学校とは反対側の周囲に高いフェンスが張ってある。網の向こうには静かな民家が立っている。
丈高い草の生えたスロープを下りて内野の方へ歩きだしたとき、妻が小さな声を上げた。「あっ」
「すごい入道雲
彼女が入道雲の話をするのはいつものことだ。夏空の中にもくもくと元気に沸き立つあの形がお気に召しているのか、買い物の帰り道だろうと、特急電車の中だろうと、目ざとく見つけてはいちいち教えてくれる。それは東京上空の雲だったり、ビルを越して見える大阪湾上の雲だったりする。
仰ぐように学校の方を振りかえると、校舎の上にそれは見えた。いつもは挨拶程度に見遣るだけの僕も息子もこの日はしばらく目が留まった。校舎の幅よりもずっと大きく広がっている。スロープが急で角度がついているので校舎に隠れて下の端が見えない。てっぺんには、高さに負けて崩れた不規則な柱のような形が並んでいる。まぶしい空に白い光が潰れるように重なって、雲は背後というよりも校舎の上に重く圧しかかっているよう。
あの雲はどのくらいの距離にあるのだろう。風はなく、グラウンドにはいつものうんざりするような草いきれがまんじりともせず漂っている。これから二時間はとめどなく汗を流しながら照りつける日差しの中での運動が続くのだ。けれども校舎の上の雲を見たあとにグラウンドに目を移すと、風景の中に何かしらの不確かさが入り込んだような気がした。今空気や光が動かないのも、あの雲によって決められているとでもいうような。風を立たせ、グラウンドを秋の景色に変えるのも、あの雲の気持ち一つだというような。普段は目に映らない何か巨きなものの力の加減やバランスが、風景と生活を決めている…
ああ、と思う。これこそ希望と不安の正体じゃないか。そよ風の始まりを感じるから、苦しい時の目覚めに一瞬の安堵を抱くのだ。いつか雲が来ることを知っているから、平穏だった日の夜でも狂おしく切ないのだ。逆に少なくとも僕の絶望や退屈は、そういう雲への畏れを失くした状態だった、どんな苦しいときであっても。今だってそうだ。
この世界の中で起きていることの、本体は何なのか。妻はたぶん入道雲と言い、今の僕なら火星という。昔のヘブライ人だったら…
夏の風物。人に教えてくれる季節。