『チップス先生さようなら』

幼い頃、ピーター・オトゥール好きの母親が家のテレビに映しているのを何度か見たことがあったので、タイトルとヨーロッパの寄宿制学校特有の黴臭い空気感だけは知っていた作品。集団生活を営みながら伝統校に学ぶ学生たちと彼らを教える教師たちを、人里離れた一種のコスモスの中に、土地の風土を背景として描いていくこの種の映画には、日本人の僕らにも玩味できる思春期への普遍的なノスタルジーが漂っている。『さよなら子供たち』、(ヨーロッパではないが)『いまを生きる』、『ペーパー・チェイス』、(映画ではないが)ヘルマン・ヘッセの小説など。これらの作品に共通して漂う青臭くも清冽な空気の謎の一部が今日ようやく解けた。欧米の学校は夏はほぼ全期間が夏休みだったのだ。寄宿生たちは全員が故郷へ帰り母親の料理を食べながら数か月のあいだ羽を伸ばす。日本のように部活や合宿のために学校へ来ることもないので、学園生活を描く映画である限り夏の晴れ渡った空と校舎とを同時に映すという機会はほとんどないのだ。ただしこの映画は先生と生徒間の波乱に満ちた交流というよりも、あくまで先生とその奥さんの愛の発展を中心に描かれているという点で、またチップス先生がポンペイへと赴いた夏休みも描かれているという点で、上にあげた映画とは少々趣きが異なる。古代の円形劇場跡でたまたま再開した二人が観客席と舞台とから響かせ合う会話、そのまま連れ添いながら夏草の上にたたずむ古代遺跡を巡っていくシーンは本当にきれいだった。(チップス先生が神殿の柱にもたれながら話すアポロンとカッサンドラの話は見終わってから妻が教えてくれた。)
時が経ち、友人のマックスが国に召喚されてドイツへ帰る辺りから、映画を暗い時代の影が覆い始める。結局チップス先生は、奥さんをドイツ軍によるV-1飛行爆弾によって失ってしまう。生徒から死の報告を受けるシーンを含むこのエピソードは後半の山場であり、それ自体非常に悲しく痛切なものであるのだが、そこに立ち上がってくるのは日本の戦争ものが古今を問わずに描きたがる悲惨、慟哭、救いのない辛苦とはまた別様のものだ。先生は生徒に対して、まるで隣町のやばい兄ちゃん(確かにそれは相当やばいには違いない)か誰かについて語るかのようにヒトラーについて語る。人としての道を外れたヒトラーといえども、鬼でも畜生でもなく、あくまで我々と同じ、そして我々が古典に学ぶ古代人と同じ人間なのだという基本的な姿勢がそこには感じられる。人間同士の対立が引き起こした事態には人間として立ち向わなければならない。人文主義的覚悟とでも呼んで良いこの誇りある姿勢を支えていたものこそ彼が追究してきた教養だったのかもしれないな、というようなことを考えた。