リレーの順番を決める参考のために幼稚園でかけっこのタイムを計った日、「オレが一番だった!」と喜んでいた息子だったが、それ以降はかけっこのことを全く口にしなくなった。今練習している組体操や、隣の組とのし烈なバトルになっているリレーのことは聞かせてくれても、個人で走るかけっこの話題は一切出てこなくなった。幼稚園の役員として何度か予行演習の場にいた妻によると、何か走り方が分からなくなってしまっているようでフォームがバラバラになり、かけっこの練習をするたびに順位が落ちて、最近のレースではついにビリになっていたらしい。それでも本人がそれを話題にしないのだから、親としても口を挟む道理はないと発言を控えていたのだが、うちらも人の子、前夜に二人で「かけっこ 速くなる」と検索していたことはここに告白する。けれども、当日になって聞かれてもないのに「腕を振れ」だの「腿を上げろ」だの世話を焼いてもさらに混乱を誘うだけだし、何より避けたいのは、自分の頑張りだけでなく、自分の順位にも親は関心を持っているのだという間違った観念を彼に与えてしまうことだ。試行錯誤して苦しんでいる子どもを見かねて差し伸べた手が、子どもに余計な価値観を植え付けることに繋がる、というのはベタ過ぎる親の失策ではないか。本人が言わないのだから、やはり黙っていた方がいいのだろうか。
当日は妻が役員の仕事で早めに登園、息子と僕とお母さんは、うちの両親と遅れて駅で待合せた。電車で空いている席に座り、息子と二人だけになったとき、窓の外を眺めている彼に対して自然に言葉が出てきた。「リレーとかかけっこと、マラソン大会では走り方が違うでしょう?」「うん」「父ちゃん、マラソンの時は速いままなるべく長く走れるように、新幹線みたいに走ってたわ」「…」「でもリレーとかかけっこのときは、ロケットみたいに走ってた。3、2、1、ドゴォーーーーン!!!!!」。返答はなかったけど、何かを考えるように、それからさらに口数は少なくなった。
号砲とともに爆発するような走りでぶっちぎった本番を終えた今になっても、あの話をしたのが良かったのかどうか分からないでいる。それにその結果を、あたかも僕のアドバイスが奏効したかのようにとられ兼ねないこういう書き方をしているのが正しいのかどうかも。それでも、自分が子どもだった頃の武者震いをするような感覚について息子に話せたのは親としてうれしい経験だった。それを彼がどう受け止めたのかは本当にわからないけど、「オレ、最後まで頑張ったわ」とだけ言ったレース後の感想に少しだけほっとする。
三年目の運動会最後は全員参加の年長リレー。そこでマイクを握っていたのは、息子の入園と同じ年に幼稚園の先生を始め、その年に今の年長組を受け持った男の先生だった。初年度は手探りだった彼の司会ぶりも、三年目になって見違えるほど上手になっている。でも途中からそれ以上に、選手紹介や実況の口ぶりに彼自身の気持ちががこもっていることに気がついた。名前をコールする園児の一人一人は自分が初めて受けもった子どもたちだという、彼の中に去来する思いがマイクの声に勢いを与え、会場の熱を巻き込んでいくようだった。不思議な一体感のなかでみんなが声を嗄らしていた。