ホテルを出てから札幌行きのスーパー北斗の乗車時間まで二時間しかないから、摩周丸五稜郭タワーの両方に行くことはできないと告げると、息子は迷わず摩周丸を選んだ。僕が操舵室に据えられた航海用の双眼鏡と自前のと見比べて「負けた」だのなんだの言っている間も、彼は船内の展示や設備を隈なく見て回って時間がたつのを惜しんでいた。よほど青函連絡船に惹かれるものがあったのだろう。
そういう経緯があったから、札幌の居酒屋で一堂に会し、何を話そうかと手探りをしていたときに彼が摩周丸の話で口火を切り、大叔母が青函連絡船の思い出話を返してからは、久しぶりであることが信じられないほど和気藹藹と、皆が再開のときを楽しむことができた。母が七、八才のとき、母の父が病に臥せったために、さほど親しくない隣の家にあずけられていたという話は前に母の口から聞いていた。母の境遇を心配した当時二十を過ぎたばかりの大叔母は、函館から海を渡り、青森から二十四時間の鉄路を経て大阪まで母の面倒を見に来てくれたのだった。それが彼女の青函連絡船にまつわる最大の思い出だった。寂しい思いをしていた母の耳に、家の戸口から聞こえた「ごめんください」という優しい声。長い髪を毎日梳かしてくれた大叔母の優しい手つき。前に聞いていた母のそんな思い出を話すと、八十四才の大叔母は「そうなんだ。ちっちゃん、そんなことおぼえてくれてたんだ」と言って静かに表情を崩されていた。二人の娘さんもその様子を見て涙を流していた。神戸の空襲のときも、祖母に背負われて逃げる母の息があるのを何度も確認したという大叔母にとって、母がどんなにかわいい存在であったか、その息子である僕と、孫である息子を、どんな気持ちで見ていてくれているのか。七十年前の記憶が今でも彼女の中に息づいていることをありありと感じるにつれ、そのことの有難さを感じずにいられなかった。
旅のあと、息子のもとには、北海道から可愛らしいタワーの本が届くだろう。