台風が夏の雲を掃いていってから、富士山を拝める日が続いている。一人で風呂に浸かっていると、ベランダで夕焼けの富士の美しさを発見した息子が教えに来てくれる。そのままスッポコポンでベランダに出ろという無体な要求を何とか断り、出ると、没した太陽からの光を孕んで、幾層にも重なった薄い雲が西の富士から南の箱根山まで陰影の線を引いている。東には満月。
僕がボランティアに出かけた後も、じいじが月がきれいだと電話で教えてくれて、ご飯を食べ終わった二人はまたベランダに出たそうだ。雲のない夜空に浮かぶ月は余りにきれいで、妻は和歌山のおばあちゃんにも教えたくなってベランダから電話をかける。そう言えばもう十五夜やなあ、お団子でも作ろうか。うん、私も明日作ってみるわ。息子は和歌山からも月が見えることに驚いた様子だったそうだが、ともかくこの日は、皆でお月見をしたという余韻に浸りながらこのまま平和に終わるはずだった…。
が、寝床に入る寸前になって、「明日の朝にお団子食べる」と始まった!
「(おっとォ、そこかァー、と思いつつ)朝ごはんにはお団子食べないよ」
「食べる!」
「でもおうちにお団子作る材料がないんだ」
「じゃあ買ってくる!」
「でももうお店閉まってるよ(まだ8時だから閉まってないけど、この際仕方ない)」
「お店が閉まってるとこ見たい!」…
結局、明日の朝、早めに起きて店が閉まっているところを見てから登園するということで話がついたということだ。
二学期という幼稚園での闘いが始まって以来すったもんだ毎日が続いていて、ヒヤヒヤするほどの激しいやり取りも勃発するが、派手なゲームが行われている円卓の下で、母はがっちりと子の魂の手を握っている。激しいやり取りも、波打つ感情がphoneticに強調された人間的な表現であって、相手を責める、問い詰める、問い糺す、無意識をあげつらう、論破して勝ち誇る、心からの反省を促す、二度とやらないと誓わせる、犠牲心をひけらかす、といった宗教的審級を帯びた(人間の分際を超えた)言葉は母の辞書の中には全くないのだから(夫だってそのようなことは一度も言われたことがないのだから)その点、子は幸せだと思う。