初めてワールドカップのことを知ったのは1986年、十一才の時だったと思う。当時、洗濯機の上に毎朝、親父が便所で読みかけた新聞が、いつも読みかけのスポーツ欄を表にして置かれていて、そこに連日踊る『フランス四強』等の見出しや、今から振り返るとプラティニらしき選手の写真がただの大会の扱いにしてはやけに大きく、今メキシコで行われている大会には一般的な国際試合を超えた何かがあるのだ、と幼心に胸が高鳴った。親や学校の先生が、ほとんど話題にしていないというギャップも魅力だった。初めて90分間見たサッカーの試合は日本時間の早朝に行われたアルゼンチン対西ドイツの決勝戦。自分で起きたのか親に起こしてもらったかは忘れたが、試合を見たのは一人でだったと思う。暗い部屋でブラウン管に衛星中継される芝生の緑を見つめるという行為は、十一才なりの背徳であった。
1990年のイタリア大会はバスケ部の友達と優勝国を当てる賭けをした。僕が予想したオランダと、友人の一人が予想したソ連は予選で敗れ、西ドイツと予想した友人が貴重な小遣いをさらっていった。この時もまだメディアの扱いは大きくなかったが、NHKBS放送の普及が始まっていて、ヨドバシカメラに行くとカナリア色のカレッカの映った大きなテレビが何十台も並んでいた。フリットライカールトファンバステン、ハジ、シーフォ、バルデラマ。外国の選手の名前は、洋楽のアーティストのそれのような魅惑的な響きとともにするすると頭に入ってきた。なんせ日本の代表は一度もその舞台に立ったことがないのだから、つまりそこで起こっていることは周りの大人も誰一人知らないことだから、大人への反抗のエンブレムとしては打ってつけだったのだ。「世界の可能性」がそのまま「自分の可能性」だった少年期。1994年、寝ている妻の横で虚ろに眺めたアメリカ大会。
日本がワールドカップに出場するようになり、サッカーに対する巨大な国民感情が出来上がるのと相反して熱が冷めていったのは、サッカーが自分のアイデンティティにとって都合の良い記号性を失ったからだ。自分はサッカーそのもののファンでは全くなかった。今回だって、本選出場を決めた代表の戦いぶりなどほとんど気にかけてこなかった。この四年間、香川や本田やメッシに何があったのか、自分は何も知らない。
ワールドカップが始まる前の日に、幼稚園から帰った息子が明日からワールドカップだと教えてくれて、ようやくもうそんな時期かと我に返った。ネイマールという名前を口にしながらフェイントの真似事をする彼の中からはもう、親や先生を超えたヒーローに対する憧れのようなものが感じ取れる。不純ではあったけれど、四年ごとに自分なりの憧れや苦しい気持ちを張り付けてきたワールドカップという言葉は、いつの間にか次の世代に渡っていた。