という具合で、子どもが四才になったといっても、いつもの幸せに輪をかけただけのこと、いつも書いている通りの感慨で、特記するようなこともない。
ただ振り返って、自分でも些か特異だと思うのは、この四年間、息子に対して苛立ちや怒りの感情を覚えたことが一度もないということで、これは自分が他の人に向ける感情と比較すると確かに異質ではあるのだが、その理由を考えるとそれはひどくシンプルなものであり、それが故に至極自然なことであったようにも思う。その理由というのは、僕が息子に対して自分の投影をほとんど見ることがなかった、ということだ。親が目を細める子どもの仕草から、子どもの自発性に垣間見える性格傾向まで、その殆ど全てを僕は妻からの継承物として見てきた。息子本人について、妻の家系に授かった子と無意識に位置付け、自分の家の跡取り、直系の第一子として見たことは一度もなかった。人間が一番忌み嫌うのは、自分と似たもの、意見の一致した者だ、というのは何かSFのテーマにもなりそうな逆説であるが、そういった近親愛憎の地獄から自由であれたは、僕にとってはもちろん、おそらく息子にとっても幸いだった。
そして妻について言えば。十代の頃から神経過敏で何重にも拗れた無粋者との付き合い方を心得、その扱いに習熟してきた経験、奈落を漂う不安から最高の楽しさを引き出してきた自信が、子どもという繊細な未知の生命との交わりにおいて強みになったことだけは間違いない、と信じたい。そうすることで、自分の味わってきた苦しみも決して無駄ではなかったと納得することができるから、そう信じることが多分正しいのだ。