妻と息子だけが先に和歌山に帰ることは前から言ってあって、息子も帰省の日が来るのを楽しみにしていたのだけど、僕が前日になってぽろっと「淋しくなるなぁ」と言ってしまってからややムードが変わり、ことあるごとに妻の目を忍んで僕の部屋に入って来ては「父ちゃん淋しい?」、「○君もちょっと淋しいよ」などと声をかけてくれるようになり、余計なことを言ってしまったと思った僕は、仕事いっぱいがんばるから大丈夫、淋しくないよ、と軌道修正したのだけど、夜になって母ちゃんと寝床でお話しをしているうちに、「父ちゃん淋しくないかな」と言いながらはらはらは泣き出してしまった。豆電球だけの点いた部屋で布団に横たわって見上げる薄暗い天井。いつもは三人で寝ているこの空間に、たった一人で居るということがどういうことなのかをリアルに想像して主客のまざった恐怖にはまり込んでしまったかもしれない。神経症傾向の人間とかれこれ二十年も一緒に暮らしてきて、強迫的な想像に伴う恐怖に対しては、ジタバタせずにその上を漂うように力を抜いて時の流れに委ねることがたった一つのソリューションだということを妻は熟知しているから、長旅に備えて早く寝かせるという方針を早々に切り上げ、結局十一時近くになってようやく部屋に来て事の顛末を話してくれた。早く寝ないと明日に響くとか、甘えさせると癖になるんじゃないかとか、そういうセコイ合理性を捨てた聞き手の存在、朝まで相手の心に耳を傾ける覚悟を決めた家族の抱擁が、意のままにならない心の悪戯に苦しむ人間にとってどれだけ心強いことか。子どもの性格が自分に似ているという厄介な事実の中には、パートナーがすでにその性格の扱いを心得てくれているという感謝すべき側面もあると思い、なんともなく有難い気持ちになった。