両親を誘ってお遊戯会に行った。
みんなでやるタンバリンの合奏で、タンバリンを手に取ることを渋り、先生に持たされても一度も叩かなかった年中の男の子がいた。会場ではあたたかい微笑みの対象になっていたその子も、この一週間ずっと家では一生懸命タンバリンの練習をしていたらしい、ということを妻からの話で知った。
年長が力強く歌い切った『切手のないおくりもの』。
この曲を初めて幼稚園で練習してきた日の夜、「別れゆくあなたへ」とはどういう意味なのかと、真剣な目で枕元の母ちゃんに訊いていたっけ。そうして妻から、もう会えないのだ、という意味を聞いたとき、母ちゃんはなんで自分の父ちゃんと会えないのか、と静かに枕を濡らしていたっけ。
他の家のことなら何でもない事でも、自分の子のことになると気が気でない。他の子のことなら、そんなこともあるよねと流せても、自分の子のことはそう簡単に受け止められない。僕たちはその内容をほとんど知ることがないけれど、それでもそういう「のっぴきならないこと」がめいめいの家や人を成り立たせていることは生きているうちに少しずつ分かってくる。その存在を知ったからといって、それが具体的にどういう内容の悩みなのかは、やっぱりあまり聞こえてこないけど、年を取るにつれてそういう「のっぴきならないこと」の中に身を置き続けることが「生きる」ということで、僕たちの他人に感じる敬意は、めいめいの生きる努力に向かっていることも知るようになる。ところで、僕らはその敬意を使って何ができるのだろう?箱の中にあるものについては相変わらず何も知らないのに?
人と人の間に交わされる笑顔や拍手や冗談。その中にときおり混じる傍観者の疚しさ。この疚しさの中にある、身を切る甘美(あま)さ。