今日は、春から通うことになった幼稚園で、初めて母ちゃんとしばらく離れて時間を過ごすという通過儀礼の日。
「ちて!(して!)」
「何をしてほしいの?」
「勇気をよ!」
と、確かしまじろうのDVDに出てきた『勇気をタッチ』というポーズをせがんでから、お兄ちゃんお姉ちゃん達の部屋へ消えていったそうだ。一週間がかりでシナリオを書き、その冷徹な演出者を務めてきた妻が夜ほっとした表情で教えてくれた。
子どもに限らないことだが、人の心をある状態にし向けたいとき、あるいは本人もAという心理状態になるのが望ましいと頭では分かっていながらなかなかそうもいかない時、親はどんな言葉をかけるべきだろうか。妻に関して言えば、「Aがいいよ」、「Aになれるといいね」という言葉はあまり聞いたことがない。就中「Aになりなさい」、「Aと思いなさい」、「Aじゃないと困ったことになるよ」等とは一度も耳にしたことがない。命令や警告は、それを発する者にとっては手っ取り早い表現になりうるが、殊、人の心理に関しては第一則の禁じ手であり、サッカーで言えばボールを手で抱えてゴールへ持ち込もうとするようなものと考えているのかもしれない。親がつい口にしてしまいがちな「余計なこと」には、細かく息の長い観察と記憶が代わっている。何気ない言葉、できるようになったことと、できなくなったこと、それが彼の中に涵養していくであろう自信と困惑。真白いパレットの上に丁寧に並べられた絵の具のような素材から、細心の注意で子どもの肖像が描かれていく。寝静まってから聞く息子の話には、一幅の絵画から受ける落着きと、開かれた完結性がある。
「余計なことを言っても結局回り道をする。私が計算高くてイヤラシイだけ」というのが彼女の口癖だが、とてもそんな手抜きとは思えない。