朝、笑顔とともに起きてきてから、昼間はジイジと二人で新幹線や電気機関車を見に小旅行へ出かけ、夕方は僕と妻と三人でドーナツを食べながら公園で寝そべり、夜は母ちゃんとちょっとした押し問答があって泣いてしまったけれども、すぐに気持ちを切り替え、可笑しなことを言ったりして親を笑わせながら晩御飯を食べ、食後は僕と一緒に録画された同じCMを何十回も見て、同じ歌を歌った。消灯して、「もう寝んねだよ」と言い聞かせても一日を全力で駆け抜けてきた汽車がそう簡単にブレーキをかけられるはずもなく、布団の中で大声で歌を歌いながら、電池が切れたおもちゃのようにある瞬間ぱたっと眠りにおちた。そんな息子の寝顔を見ていたら、僕がいつも妻に問いかける「彼のどんなところが好き?」という質問に、彼女がきまって返してくる「頑張って生きてるところかなぁ」という言葉の真意が、今日は本当の意味で理解できたような気がするのだった。彼が生まれてからほぼ毎日つけてきた育児日記の最後に、彼女はよく息子に直接語りかけるような口調で「今日も頑張りましたね♪」と書いていた。子どもに自己の投影された分身を見るのでもなく、自分の所有物として、或いは外にある客観的な対象として愛でるでもなく、彼女は彼の内に起こっている心のさざ波の全てを抱き込むようにして息子を愛している。だから彼が起きて動き回っている間はその営みが止むことは一切ない。そういう覚悟を決めて出産直後から誰よりも頑張ってきたから、泣いてミルクを欲しがっているだけと思われがちな0才児固有の頑張りにも気づけたのだろうと思う。今も一日の終わりに息子の報告をしてくれる時、彼女は「今日はこんなところで頑張ったんだよ」という語りだしから始めることが多いけど、それが、絵が描けたとか、ピアノが弾けたとか、数を覚えた等という技能に関する話であることはほとんどなく、彼の心の内のちょっとした気持ちの踏ん切りとか、勇気とか忍耐とか、優しさ、ユーモア等に関することがほとんどで、そういう話は僕を息子だけでなくその母親についても誇らしい気持ちにさせてくれる。