和歌山へ里帰りすることを決めたのは、1月7日の土曜日の昼頃だった。その日も起掛けから鬱屈とした感情抜けがたく、僕らは紙に樹形図やら表やらを書いて起こりうる最悪の事態を想定した対策について話し合っていた。せめて今できる最善の行動を探るために、この四ヶ月間主に息子が寝た時間帯から続けてきた僕らなりの足掻きだったが、その日は膨れ上がる不安や失望感の処理に理性が追い付かず、やむなく昼間から妻に相談に乗ってもらっていたのだった。海外への移住、永住、離婚、引越し、再就職、裁判、借金、相続、法律、病気…。およそ日常的でないキーワードが並ぶメモ用紙を前にして、自分の中の燃料が切れるのを多分二人とも同時に感じたのだと思う。僕が漏らした「もう俺たち疲れきったんだよ」という言葉をきっかけに涙が止め処もなく溢れてきた。それから十分後にはお母さんと妹さんに、明日から行くと電話を入れた。突然の出来事にもかかわらず、二人とも楽しみにしているよ、と快い返事。和歌山へ行ったところで現実は何一つ変わらないことは百も承知だった。ただ悶々とした時間の流れる家を離れることで少しの間でも現実を忘れたかった。そしてそれ以上に、実家へ行くことで何か暖かいものにふれられるような、かの地で根を張って生きる人々の姿から生にかかわる何かしらのヒントや勇気を貰えるような、そんな確信に似た期待もあったのだと思う。カメラをもっていく余裕もなく、一週間に及んだ滞在の写真は一枚も残っていない。期待に違わず忘れ得ぬ思い出になった滞在の記録をスナップショット風に残しておきたい。

  • 1月8日

相変わらず身体は重いが大わらわで旅の準備に追われる。そんな中妹さんから妻に電話があり僕に代わってくれという。電話口に出ると、甥が「はーちゃん将棋できる?来たら勝負しよ」と。妻や息子だけでなく僕のことも歓迎していることを伝えてくれるための、彼女ならではの心遣い。出発は昼過ぎ。乗り継ぎ悪く何本かの新幹線を息子と一緒に見送った後、ようやく指定の列車に乗り込む。どこへ行ってもその場を楽しもうとしてくれるのは息子の最大の長所の一つだが、その日はいかんせんテンションが高すぎた。おまけに体力もついてきており、十月の京都行きの際には発車後すぐに眠りに落ちたのに、今日はまったく眠る気配もなく歓声を上げ続けている。おかげで妻に何度もデッキに連れ出される羽目に。和歌山の最寄り駅に着いたのは、出発から六時間後の午後六時半。ひそかに南国のすごしやすい陽気をあてにしていた淡い期待を裏切る強烈な寒気が僕らに吹きつける。妹さんが車で迎えに来てくれて、お母さんの実家に着くと、甥が息子のために用意してくれていた見事なプラレールのセットが待っていた。何台もの特急や電車が走りまわる賑やかな光景に、息子は少し心配していた場所見知りなどどこ吹く風で早速目を奪われ、甥と一緒に遊び始めた。その日は、あわただしく夕食をいただいてお風呂に入ってから寝床についた。一年半ぶりの再会にもかかわらず、湯船の中で甥が後ろから抱きついてきてくれたのは嬉しかった。

  • 1月9日

前日は遅めの就寝だったにもかかわらず、息子は興奮気味に早めに目を覚ました。僕らもつれて起きて朝からコーヒーを飲んだりしながら六人でゆっくりと過ごす。甥とは二局約束の将棋を打つ。まだ小学一年生なのに判断が早いのには驚かされる。表で遊んでいる時、息子が車の通る道路へ出たり、駐車場へ石を投げたりしてお母さんに注意されると、その都度「オレもやったことあるで」と息子をかばっている甥の姿に、彼の根っからの優しさが出ていて心が温まる。結局甥が宝物のように大切にしているプラレールのセットも、二才児がどんな遊び方をするか分かったものではないにもかかわらず、滞在中ずっと実家に置いて息子に遊ばせてくれていた。午後から妹さん親子と一緒に出かけ、図書館で別れた。帰りの車の中、昨日からの興奮と疲れがたたったのか息子はすぐに落ちてしまう。家についても眠りは覚めず、車の助手席に座ったままの妻の膝の上でいつまでも眠っていた。

  • 1月10日

この日は甥が始業式で帰りが早くなるため、仕事のある妹さんの代わりに僕らとお母さんで彼を迎えることになった。周囲を山に囲まれたのどかな盆地にアパートはあって、きれいに整理された室内には僕らのための昼食と息子が遊ぶための別のおもちゃが用意されていた。ここで一つ事件が勃発。兄弟間の感情のマネージメントは親の最大の腕の見せ所だと思い知らされる一件だったが、その点お母さんが甥にかけていた言葉には共感と優しさがこもっていて感心させられた。
お母さんによると今日はちょうどえびす講の日だということで、帰りに近所の神社に寄って息子と一緒に紐を引いて鈴を鳴らしたり、市でたい焼きを買ったり。夕食はイカやカンパチの刺身とビール。スーパーで買ってきた魚なのに透明で身が詰まっていて異常に美味い。この辺りはどのスーパーに行っても、首都圏では手に入りようのない魚や野菜が安い値段で売られていて、前日聞いた近所の中古マンションが600万という情報も手伝って、田舎暮らしも悪くないかもね、などと妻と話していた。

  • 1月11日

朝からネットで時刻表を調べ、和歌山駅から出ているおもでんという電車に乗りに行った。発着場は自動券売機も自動改札もないホームで、真っ赤に塗装された車体と、電車の模型が展示された車内という、とてもユニークなコンセプトの電車だったが、普通の電車や新幹線にすでに好奇心を満たされている息子にとってはそれほどの刺激でもないようだった。その電車に乗って交通センター前という駅に行き、子どもの頃の妻が遊びに来たという公園で時間を過ごす。快晴の寒空の下、電気自動車に乗ったり、滑り台で遊んだりしている妻と息子を見ているとふっと不安に襲われるが、そうすると空を見つめて、僕にとって大切なものはすでに完全に与えられているのだということを言い聞かせていた。お母さんはこっちに来てから、一切そのことにふれようとしない。一生懸命もてなして、せめてこっちにいる間だけでも楽しく過ごしてもらおうという姿勢に温かさを感じていた。

  • 1月12日

前夜に妻の友達と行った居酒屋で食べた食事が当たって腹の調子が悪い。今から考えるとこれだけ良い食材のそろう環境で、あんな雑巾のような色をした寿司ねたが出てくるなんてやはりどこかおかしかったのだ。自分が行った店の愛想が無いだの、サービスが悪いだの、味がどうのなどということは殆ど言わない人間のつもりだが、腹を下させられるとさすがに参ってしまう。
朝から妹さんが遊びに来る。昼に駅まで甥を迎えに行って、夕方から二人で一時間表でサッカーをする。僕は所構わず蹴りまくって隣りの家の壁やら、妹さんの車やらにボールを当てて、小学一年生の甥に「あ〜、あかんって」と何度もたしなめられていた。この年になってもボールをもつと昔の遊び方を思い出す。遊びは子どもの聖域なのだから、親に見つかったら怒られるくらいのことをやったほうが面白い。夕食の時、目が合うと、彼は共犯者のようないたずらっぽい目つきで笑っていた。
剣玉などをやって過ごした夕食後の団欒も楽しく、息子からは「おばあちゃんのおうち、たのしいね〜」との言葉が出た。子どもは素直。

  • 1月13日

二年ぶりのお墓参り。前回息子はまだA型のベビーカーに乗ってうたた寝をしていた。お寺で妹さんと待ち合わせ。こうして僕らに会うために毎日のように顔を出してくれるのは楽しくとてもありがたい。今回は息子もお地蔵さんに水を掛け、お墓の前でしゃがんでしっかりと手を合わせていた。
和歌山城そばのモスバーガーで昼食の後、近くの公園で三人で遊ぶ。夕方は妻と外で縄跳び。二十数年ぶりに手にした縄跳びで、二重跳びを軽々と35回やってみせたのには驚いた。僕はたったの12回。夕食に「した」という魚の煮付をいただいてから、お母さんがいつも一人で通っている銭湯に四人で出かけた。僕は一人男湯に浸かっていたが、女湯では息子が初めての大浴場でプールよろしく駆けずり回っていたらしい。息子とお湯を掛けあって遊んでいるお母さんの顔がとても楽しそうで、あの日は銭湯に行って本当に良かったと妻が言っていた。

  • 1月14日

昼に甥を駅まで迎えに行ってまた六人で過ごす。夕方に不幸の電話が掛かってきて、明日家に帰ってから待ち受けている現実に引き戻される。
最後の夕食に、妻は好物のさばの南蛮揚げをリクエストし、息子とお母さんと一緒に良い食材を探しに車で出かけていった。甥と二人で縄跳びをしていると、妹さんも顔を出す。昨日妻が二重跳びを35回やったことを伝えるとそれまで見ているだけだった彼女も縄をもって跳び始める。妻の軽々とした柔らかい跳び方とは違って、パワーとスピードを活かしたフォームで迫力がある。22回跳んだところで、家に戻ったので、もう終わりかなと思っていたら、髪を結んで颯爽と戻ってきて気合を入れ直し39回跳んでみせた。ちょうど買い物に出た三人が帰ってきて、妻に「みーちゃん39回跳んだよ」と言うと、妻もコートを脱いで臨戦態勢に入る。甥は自分のお母さんの記録が抜かれることを恐れているようで、最初縄の長さが合わずに3回で終わった時、「勝った〜!」と歓喜の雄叫びを上げていた。調子の出てきた妻が20、30と回数を伸ばしていくと、記録の更新を防がんと自分の縄をそこに絡ませようとなどしていたが、結局妻は意地で42回跳び面目を保った。それを静観していた妹さんは再び縄を手に取り、なんと同じ42回でフィニッシュ。熱き姉妹の戦いは引分けに終わった。互いの個性を活かした全く異なるフォームで跳ぶ二人の姿はどちらも格好良く、この一族のファンである僕は完全に魅了されていた(僕は筋力だけに頼った汚いフォームで22回が最高だった)。また再会してから別れるまで、事ある毎に抱き合っていた仲の良い姉妹が、この時ばかりは火花を散らして意地を張っているさまも可笑しく、今滞在のハイライトと言えるイベントだった。
子どもたちが寝た後、姉妹と三人で夜遅くまでまったりと話す。和歌山の土地柄とそこでの生活、仕事のこと、子どもたちのこと。僕らが直面している問題の話もした。妹さんが言った「住む所に困ったらうちに来てもいいし、狭いけど」という言葉は、年明けに彼女が妻に対してしてくれた法外な申し出とともに、ずっと忘れないと思う。

  • 1月15日

最終日。宅急便を出してから、六人で駅へ向かう。余裕をもって家を出たはずなのに、別れの時間はあっという間に近づいてくる。駅に着いてから甥がずっとスーツケースを押してくれる。お母さんは家を出てから口数が少なくなり、ホームではほとんど何も話さなかった。「別れの時まであと○分」と僕がいちいちアナウンスすると、その度に妻と妹さんは抱き合っている。特急が入線してきて僕たちの前に止まった。それまで抱き合っていた妹さんが、「頑張れよ!」と言いながら妻の背中をバンと叩いた。列車に乗り込んだ僕たち三人と、この一週間温かく迎えてくれた三人が対面する。列車が動き出す。遠ざかるホームの上で、目にだけ優しい笑みを浮かべたお母さんがとても小さく見えた。
お母さんは孫二人に囲まれた一週間の賑やかな生活から、また六十八才の一人暮らしへと戻っていく。その気持ちを慮ってか、妹さんは甥とともに一旦実家へ帰って思い出話をした後、お母さんと一緒に銭湯へ行ってくれたらしい。「あの子はほんまに優しいねん」。妻の口からもう何度聞いたか分からない言葉だが、僕も本当にそう思う。