これはちょっと愚痴になっちゃうけど、と断ってから妻が今日腹に据えかねたという出来事を話してくれた。僕らの住む地域にも、保育園や市の公共施設やボランティアなどが運営する、就園前の子ども用の催しがいくつか定期的に行われていて、妻はことある毎に朝から息子を連れてそういう場に顔を出している。そこでは、遊び場が提供されたり、イベントが企画されみんなでお遊戯をする機会が与えられたりするのだが、いずれも料金は無料か、有料にしても月数百円程度のものだ。今日参加したのは保育園が月に一回、園外の子ども向けに園の施設で遊ばせてくれるという会で、その会では始まりと終わりに園長先生やスタッフからちょっとしたお話があるそうなのだが、その話の最中に端っから聞く気もなくママ友同士でぺちゃくちゃ喋っている親が多すぎるというのだ。確かにスタッフの方は口下手で話に大したオチもないし、園長先生の話も独自の教育観に基づいた訓話がほとんどで、親にとっては親同士で苦労話をしゃべくっている方が子育ての助けになるということなのかもしれない。それでも、格安だろうがなんだろうがこちらはサービスを受けている身であり、その基本的な立場を忘れて、わざわざ労して貴重な場を提供してくれている人に対する最低限の敬意も持てない親たちが情けないというのが、妻の感想だった。その話を聞いて、多分この親たちは、自分にとっての損得によって態度を変えるfree riderの一種なのだろうと思った。人間には支払った対価に応じてサービスの価値を判断する傾向があり、だから料金を支払って見た映画のことは悪く言わないのに、ただで見られるテレビ番組へは文句を言うという逆説的な現象が生まれる。この親たちにとって、保育園の催しはテレビ番組と同様のfree lunchであって、その企画者や提供者へ思いを馳せる余地のない、社会に初めから組み込まれている自動的なサービスという認識なのだろう。だからお話の途中でも平気で子どもを野放しにするし、参加の自由をいいことに雨が降っただけで欠席したりする。損得で考えている以上、自分が通っている訳でもない保育園のスタッフに対して敬意をもたないことで生じる不都合は何もないのだから、適当に利用しておけばいいや、ということになる。だから、子どもの利害が直接的に絡む場面では、彼女たちが全く逆の行動に出ることも容易に予想できる。受験に関する塾の先生からの進路指導や、志望校の説明会などの最中に彼女たちがおしゃべりをすることは考えにくいし、子どもが塾を休みたいといっても簡単にはそれを許さないだろう。市場経済にはサービスの生産者と消費者がいて、仕事をしている間はその両者の間を日々行き来することになるが、専業主婦はもっぱら消費者としての立場に甘んじてしまいがちだ。そうなると、サービスはただネットで検索し比較・選択するだけの対象になり、生産者の立場に対する想像力は働きにくくなる。店への文句やクレーム、過剰サービスへの要求が女性の方に多いのには、こうした理由もあるだろう。僕らの生活は有償、無償を問わず数限りないサービスを利用することによって成り立っていて、その裏側ではその目的が慈善的なものであれ、利潤を追求するものであれ、甚大な生産的努力がなされている。その恩恵にあずかって生きている以上、それらは一定の敬意を払われるべきものだということを、息子に教えていきたいと考えている妻は、「今はお話を聞く時間だよ」と息子を膝に座らせて話を聞かせようとしていたのに、周囲の親たちが発するがやがやとした雑音で、とても聞けたものではなかったそうだ。見本になるべき大人がこれでは、こちらも立つ瀬がない、というのが御冠な妻の結論だった。さて、一体どれだけのママ友が、柔和な笑顔に隠されたこの妻の怒りを理解しているだろうか。