今日は去年末に亡くなった祖母の納骨式。お葬式以来実家に安置されていた祖母の遺骨が、母の故郷に近い霊園で、46年ぶりに祖父と再会する日だ。両親とともに家を出たときには晴れていた空は、車窓を眺めるうちに曇りに変わり、京都を過ぎ新大阪に着く頃には道路を黒く濡らす雨になった。服部霊園についても雨足は止まず、お骨を分けて納骨用の壺に移す作業を、霊園の端にある屋根のついた休憩所で行わなければならなかった。分骨された壺を抱えて広い霊園の中を歩く間も、雨は路上の小石を洗いながら僕らの上を進み、納骨堂に着くとそこにとどまって周りの空気を煙らせた。
一昨年の夏、息子が生まれ、妻とともに退院して自宅にやってくる日の前日に、僕は母と叔母と一緒に祖母のお見舞いに行っていた。いつもはおとなしくて、僕らが話しかける内容に合いの手を入れる以外にはあまり口を開かない祖母が、その日は妙によく喋った。妙にというよりも、まだ若かったころも含めて僕の知る限り見たこともないほどの饒舌さで途切れることなく話し続けていた。今朝は○○さんがお見舞いに来てくれた。先週は○○さんと○○さんで、さっきテレビを見ていたら○○先生が出てきてお話をしてくれた。施設の方に聞いてもその日僕ら以外の来客はないということだった。それ以前に、僕が知らないそれらの名前は、母に聞けばほとんどが故人のものだった。祖母の両親の名前、教会の先生や同僚の名前、50才で夫を亡くした後、心機一転北海道へ渡って知り合った友人たち。95才の祖母にとって、そのほとんどが故人となってしまった知人たちが、朝から祖母の心を見舞っているようだった。今から○○さんが来る、というようなことも祖母は言った。僕が子どもが生まれたことを告げても、分かっているのか分かっていないのか、とにかく祖母は話を続けた。僕らは相づちを打つしかなかったが、顔を紅潮させながらも来客について嬉しそうに話す祖母の姿を見るのは楽しかった。それは、95年間心の中に書きつけてきた日記や覚書き、思い出の品を楽しげに整理している姿のようにも思えた。
母が二十歳のときに亡くなった祖父の話を僕は小さい頃から聞かされてきた。数学が好きだったが、親を早くに亡くしてその道を諦め、自分は進学せずに高校教師をやりながら弟の学業を支援したこと。弟が海外のジャーナルに発表した論文を届けてくるのを何よりも楽しみにしていたこと。一方家では芥川龍之介然とした厳しい父であり、すぐに怒る怖い父であったこと。それがお酒を飲むと嘘のように優しい父に変わったこと。自分が生まれる10年前に亡くなった人物であるにもかかわらず、母をはじめ多くの人が語ったエピソードから、僕の中で祖父は鮮明なイメージを結んでいる。その個性的な人物を夫としてもち、50才で亡くした後の祖母の人生。祖母はその後結局45年間生きたのだが、そのうち35年間は同じ時間を過ごしてきたのに、僕は明瞭にそれをイメージすることができない。愛する人を失った後の時間というものは、現在の僕の想像力の外にある。
けれども祖母が口にした名前の数々は、その一つ一つが想像力の外にある時間に独特の重みを付加する手応えをもっていた。かつてこの世に生まれた全ての人の記憶は宇宙のどこかに保管されているという程度の信仰を僕はもっているが、地上で僕らがそれを閲覧することはできない。だから生きている間はそれを言葉にして保管しておくしかないのだが、言葉がその全てを再現できるわけではない。言葉ができるのは、心の中を漂うelusiveな記憶に対して一定の質量を与えること、そしてそれを暗闇で手を握るように他の人間に触覚として投げ与えること。
お見舞いからの帰り道、母が叔母に、祖父の命日が奇しくも息子の誕生日と同じだと伝えると、叔母は静かに「暑い日だったね」と言った。あの日祖母が口にした名前とともに、この言葉が与えてくれた手触りはずっと僕の心から消えないだろう。
階段を下りて納骨堂に入るとそこには人一人が通れる廊下があり、壁面の棚は天井まで無数の骨壷で埋まっていた。注意深く脚立を上り、最上段に立つ。雨が上がって雲間が明るくなった。飾り窓から透ける薄い光の日溜りに祖父と祖母が隣り合って並んでいた。