祖母の命日。午前中に降り出して見る間に勢いを増した雪の中を、妻は息子を連れて駅まで花を買いに出かけた。そのまま実家にある遺影に届ける予定だったのだが、積もった雪にベビーカーのタイヤが取られて坂を上れなくなってしまう。降りしきる大きな雪片と冷たい強風に威勢を殺がれた息子が降車を拒んだためそのまま立ち往生。やむなく父に迎えに来てもらって、自宅まで送り届けてもらう。父が進路に積もった雪を除きながら家まで誘導してくれたのだが、父が到着するまでの間も、親切な夫婦がベビーカーで段差を越えるのを手伝ってくれたそうだ。花はそのまま父に渡す。
二年たって、亡くなる少し前、祖母が施設に入ったときのことを思い出していた。普通なら施設や病院に入って当然の体調のまま、頑なに自立した生活を守ってきた祖母が、ついに生活を人の手に委ねる決意をしたのは、その前年の年末だっただろうか。エアコンも効かない室内で、家族や僕らが送った防寒具も使わず、ついには僕が撮った息子の写真の受取りまで拒否して、祖母はずっとその時だけを待っていたようだった。念願だった検体の手配から、遺品となるであろう家具の整理まで、準備は全て万端だった。あとはその時が来るまで、じっと耐えて待つだけ。そして九十才を迎えようとする冬、これまで何年も耐えてきた身体の痛みがようやく自身の限界を越えたように感じ、人には迷惑をかけない、自分のことは自分で、という信念を折る決意をして、自分の城を明け渡したのだった(勿論それはあくまで本人の心構えとしての信念であって、実際には叔母を始めとする多くの人からの世話や気遣いがあった)。それは猜疑心の強い祖母にとっては生まれて初めての、己の運命を何者かに委ねる意識だったかもしれないと思う。父は、祖母の入所先のパンフレットを僕たちに見せ、窓からの眺めが良さそうだ、というようなことを話していた。ところがいざ入所してみると、どんな検査を経ても、直ちに生命の危険につながるような数値は一向に出なかった。これといった病に冒されるのではなく、長年の疲労と痛みに蝕まれた衰弱が全身的に進行していた結果だったのだろうが、よくぞここまで一人で耐えてきた、という自負を心の支えにしてきた祖母にとっては、ショックを感じて余りある厳しい結果だった。皮肉や自虐的なユーモアを絶やさず、一人暮らしの間はっきり意識を保っていた彼女が、病室で「家の冷蔵庫が…」と不明瞭なことを口走っているという話が聞こえてきた。訃報が届いたのはそれから数週間後。十年以上、電話をかけるたびに、孤独だ、痛い、と語られる長い戦記を聞いてきたことを思えば、どこか呆気なくも感じる幕引きだった。あの数週間、彼女はベッドの上で何を考えていたのだろうか。最後に書いた手紙、最後に送った息子の写真は、病室から回収され、結局僕らの手に戻ってきた。
夕刻、日が暮れた後に三人で外へ出た。昼間は恐れをなしていた雪の上を、息子は意を決したようにずんずんと歩いた。どんな形であれ祖母が生き延びたことが、彼女の生きた時代と、息子の前に続く未確定の時間をつないでくれている。二百年だって決して長い時間ではないと思った。