先々週は妻の妹さんが遊びに来て、先週は妹が家の傍の桜の名所へ花見に招待してくれた。子どもが生まれるまで分からなかった喜びの一つが、子どもが抱っこをされて、まるで自分自身が抱きしめられたかのように感じること。いつも二人で話していることだが、愛情深い妹たちをもって僕らは幸せだ。
それにしても僕たち日本人は、赤ちゃんを抱擁することの他に、互いに体温を伝えたり、心からの好意を表現する自然な手段をもう持たないのだろうか。街で声を掛けてくれる人々の、芽吹くような、朗らかな表情を見ていると、彼らは赤ちゃんを見つめる目線の先に、恋人や赤ちゃんの抱擁よりももっと日常的な、あるいはコンビニのレジでの挨拶よりももっと人間的な交わりを求めているように思えてならない。僕らが彼らの声かけに謝意をもって応えると、彼らはそこで初めて、許されたかのように、僕たち自身にも笑顔を向けてくれて、そこから大人同士でのささやかな言葉のやり取りが始まる。僕だって、街で見かけた赤ちゃんの可愛い表情が、その後ろでベビーカーを押す親の顔つきに瓜二つだったりしたら(もちろん好みの赤ちゃんとかそういうのもあるけど…)、親子もろ共に肩をぽんと叩いたりしたくなるような、親愛の情が湧いてくることもあるけど、やっぱりその入口は赤ちゃんにするしかない。ポイントは赤ちゃんが物言わぬ存在であり、彼らの反応が、快と不快、安心と不信、関心と無関心、といった大雑把なベクトルしかもたないので、大人のほうもトピックの選択や言葉の綾に精密さが求められず、その分、第三項として僕らのaffectionを大らかに吸収してくれている、というところにあるのだろうけど、物言わぬ存在と言えば、天気だとか季節だとか桜だとか、僕らはもっと他にも色々と美しいものを共有しているはずなのに、そこを入口に見知らぬ人との会話を作り上げていくことは、僕らにとって限りなく難しくなっているように思われる。時々、息子が大きくなって一般的な愛玩の対象から外れてからも、こういう交流が大人同士の間で続けられたらどんなにいいだろうと夢想する。猫が日だまりを求めるように、人間もまた同胞の温もりを宿命的に求める存在であることを赤ちゃんは社会に啓示してくれている。でもこの役割は、赤ちゃんだけが背負い切るには余りにも大きな重荷ではないだろうか。僕らのコミュニケーションが赤ちゃんという狭い入口に殺到し、社会の未来が全て赤ちゃんの中に凝縮して表象される時、赤ちゃんという存在は行き過ぎた聖域化とタブー化の犠牲になるだろう。僕らはこの重荷を赤ちゃんだけに背負わせてはならない。反省を込めて。