先週中に年単位の(かつては夢だった)大台を達成できたおかげで、今週は仕事上の緊張感からは少し解放された状態で過ごすことができた。とはいえ仕事を離れたところでもこの脳はひっきりなしに迷い、余計なことを考え続けてしまってそうそう休ませては貰えない。水曜日、各地の県警から集められた警察官と高校生のボランティアが雑踏に交じる横浜で三人でデート。デパートの屋上でお弁当を食べた後のちょうど良い時間帯に息子が眠りについてくれたので、すぐにレストランに入りツマミもなしに昼間から白穂乃香というビールを飲んでしまう。音の消されたテレビでは海上保安庁の職員のニュース。程よく酔いが回ってきた時間と息子が目を開けた時間が重なり、そのまま少しぼおっとしながらさっきとは別のデパートの屋上へ向かう。屋上とはいっても周りを囲むビルの方がずっと高いので高所にいるという感覚は乏しい。ずっと使われていないように見えるネットを被った古い遊具や設備の間に、小さな子どもを連れた家族や学校をサボってたむろしている高校生が散らばっていてそれぞれに声を上げているが、近くを走る高速道路やデパートの空調から響く低音に埋もれて彼らの声はあまり聞こえず、人々との距離が少し遠く感じられる。ベンチに横になって真上を見ると、谷間から空を見上げている格好になり、雲のない空以外には何も見えない。時おりビルの陰から太陽光を反射した真っ白な機体が現れ、音でその存在を知った息子がその度に僕に教えてくれる。APECの警備を行うヘリコプターの機影だが、青空を横切るその光景はテロの前のニューヨークと同じでとても長閑だ。妻の携帯に甥の合格の報が入ったのはそんな折りだった。あの日も同じ色の空を見ていたな、と思い出しながら、もうあれから六年近くたっていることが信じられなくなる。もう来年彼は小学校に入学するのだ。このあいだ昔の写真を整理していた時、写真によって容易にその変化を知ることができる人の外観に比べて、人の内面の変化を知ることはとても難しい、ということを考えた。僕らが子どものことについて真剣に考え始めたのは甥が生まれる前後の時期だった。甥の誕生は子供などいらないと、半ば投槍に考えること自体を放棄していた僕たちに対して再考を促すのに十分な大事件であった。それまで敢えて正面から向き合うことを避けていた分を取り返すように、僕らは具体的な可能性としての子どもについて思いを巡らせ、お互いに向けて自分の考えを語り始めた。親としての責任、子どもと共に歩む人生、子どもを待ちうける世界の行く末、この世界に生まれてくる意味…。おそらく千時間は優に超える時間を僕らはこの問題について考え、時には血反吐を吐くような思いで窒息し、何かしらの肯定的な導きのヒントを得るために互いの言葉に耳を澄ませてきた。僕らが囚われていた問題がある種の人々からすればただの堂々巡りのように見えていたとしても、僕らがその結果たどり着いた場所が「子どもは放っておいても育ってくれる」というような、他の人々にとってのレース前のスタート地点のような所に過ぎなかったとしても、その年月に費やされた足掻きは僕らの不安定な心身を整えるためには必要な労力であったし、その間に積み重ねられた思考も、一つの生命を迎え入れるために立つ足場として僕らにとっては不可欠なものであった。あの頃まだ何の準備のできていなかった僕らの元に届けられる命がなくて良かったと、今でも真剣にそう思う。それなのに当時の日記を読むと、もし今日甥が生まれていたとしても同じ日記を書いたのではないかと思うほど、文章を生みだした内面に変化が感じられないのだ。僕自身に関して言えば、死生観の根本的なところについては甥が生まれたときからほとんど何の進歩も変化もないことが手に取るように良く分かる。命の来し方を懐かしむようにいつまでも空を眺めていたい心持ち、そんな辛気臭さを振り払うように繰り出される場違いな悪ふざけと、心のどこかで固く握られている、世界に投げ出されたもののもつ生命力への信頼。人間の内面の変化はそこに映り込む風景の見え方の変化によって最もよく感知されるのだというのが僕の仮説なのだが、内面にも変化する部分と変化しない部分とがあるように、風景にも時を追って変化するものと変化しないものとがあって、この対応によって感知される変化の質は違ってくる。今日のような真っ青な空によって浮かび上がってくるのは、おそらくそれぞれの人の中で最も変化を免れてきた部分であって、それが変えようとしてどうしても変えられなかったものであるのか、風雪に耐えてずっと守り通してきたものであるのかにかかわらず、その存在を自分の中に確認したいという気持ちは常に人間の中に眠っている。何もない空をふと見上げさせる誘いの根底にある想いはそれ以外にないと僕は思う。