「母ちゃん、銀っていうのは『真が無い』って覚えればいいんだよ。前に行けるのは当たり前だから、真横と真後ろに行けない。金はそれを補ってるの」
「桂馬はナイトみたいには後ろに行けない。前にしか行けないから金になれるんだよ」
自分の知っていることを他人に教えるために親身になることの難しさ、あまつさえ、自分にとっての朝飯前ができずに臍を曲げている人の心に、届くような言葉を選ぶことのむつかしさ。
こんなことで一々感心してしまうのは、子どもを子どもとしか見ていない妻の親目線なのだろうか。「子どもは生まれたときから一人前」と言いながら、その実半人前としか見ていない偉ぶりがあるのだろうか。
先週、京都下京区の町屋で大学の同窓と会った。友人が企画した一風変わった会合だった。卒業後二十年で各々が取り組んできたこと、考えてきたことその他を各自一時間ずつ報告するのである。その日、発表後の質疑応答であたふたしていた僕に二人の友人が助け舟を出してくれた。そのときの僕も、とっさに感じたのは嬉しさというより驚きだった。ならば僕は彼らを見損なっていたのだろうか。
違うと思う。妻は子どもを半人前には見ていないし、僕は友人を見損なっていないから違うと思う。じゃあなんだと言われれば、はっきりしたことは分からない。でも人間関係というものは、僕らが自覚しているよりもっと大きなものなのだとは思う。僕らが日々この身体の中で付き合わなければいけないのは自分の小さな思慕や葛藤なのであって、僕らは他人の抱えている葛藤を免除されている。その代わりに僕らには他人の方が居住まい正しく見えるという負い目が生じている。認識の矢印は外へ向かうしかないのだからそれは仕方のないことだ。それがアットホームといえるような場、関係性そのものが主役になるような団欒の場におかれたとき、片務性の緊張が緩んで本来の通い合いが戻ってくる。
自分が思っている程度には相手も思ってくれていると思える場。ふだんはバラバラに暮らしているけど、遡ればお互いここから来たじゃないか、と思える場。それは別に家庭ではなくても良いのだけど、そういう関係性の全体に自分が包まれていることがある種の驚きをもって再発見されるときの感情を、懐かしいというようにも思う。