大切だと思っていたものは、心の中からあっという間に消えていく。子供はもう三ヶ月になる。折れそうだった体はいつのまにかしっかりして色々な抱き方に耐えられるようになった。彼が見せてくれるさまざまな表情、妻が彼にかける言葉の数々は毎日のように移ろい、僕はいつもそれらに焦点を合わせて心のある領域に留めておこうとするけれども、時が経つにつれ印象は薄くなり、水が流れたあとのような痕跡だけを残して心の中から消えていく。言葉や写真に残そうとしたところで、結局は同じことなのだ。僕らは感謝とともにある種の寂しさを感じながら一日を終える。そして明くる日もまた捉えがたい感興が僕らを見舞うのだ
先週携帯ニュースで庄野潤三の死を知って驚いた。というのも、全く個人的な理由だが、その前日に寝床へ持っていった本が他ならぬ彼の『静物』であったからだった。たった10ページを読んだところで、二節の謎の叙述に躓いてしまい、疑問を抱えながら眠りについたのだった。なぜ、妻は湯たんぽで火傷を負う羽目になったのか…。十八の小さな節からなるこの小説は、いくつかの節を除けば、その殆どが、静穏な家族五人の日常の情景を描くことに当てられている。そこには事件もドラマも起こらず、情動を駆り立てるような心の葛藤や機微も描かれない。文字通り、市立美術館の目立たない一角に掛けられた小さな静物画のような風合いで、簡素な日常が綴られていくだけだ。抑えの利いた無駄のない文体には独特の味わいがあり、これらの節だけをとっても小品として通じる質をもっている。小説は、最後までそんな調子で波乱なく終わるのだが、読み終えた読者は、二節と、七、十四、十六の各節の一部に不気味な描写があったことを訝しく思い出すだろう。それらは、多くの読者が一読しただけでは分からないような具合で、しかし再考したときには誰もが驚きを伴って察知する意味をもって、それらの場所に隠されている。その意味が了解されたとき、静物画の色合いが一変していることに読者は気づかされる。小説の各部に亀裂が走り、そこから迸り出た意味は、白を黒に、黒を白に一変させる。あの日常に漂っていた静けさが、全く別の静けさであったことを読者に知らしめる。静けさは男を父親に、妻を細君に変えたあの事件から時間を辿って流れてくる。「男はひっそりした家の中で少しびっこをひきながら歩いている妻の姿を思い浮かべた。」何気なく並んでいた各節は、いまや『或阿呆の一生』の断章のような不気味な様相で読者の目の前に立ち上がってくる。
著者が芥川賞を受賞した『プールサイド小景』という作品は、よく「日常に潜む不安を描き出した」と評される。しかしおよそ小説を好んで読む人間の中に、「日常に潜む不安」が描かれてありがたいと思う者がいるだろうか。まして今の時代、わざわざ時間を割いて手に取った本に不安や絶望を読み込み、己の現実感を固めようとするだろうか。小説が纏うどんな暗鬱なムードの中にも、希望を読み取ろうとするのが暗い時代に住まう読者の心理ではないだろうか。その意味で、『静物』は『プールサイド小景』よりも数段深いところにある小説だ。そして言わずもがな『或阿呆の一生』などよりも。この小説はトリックを駆使したどんでん返しではない。その本義ははあくまで家族五人が暮らす現在にある。著者の主眼は、あの事件のあと父親と細君に営々といとなまれてきた日常のほうにあると少なくとも僕は信じる。第三の新人の中でも、著者が年を重ねるにつれて根強いファンを獲得して行ったのも、後年のさらに静謐さを増した作品や、日常をつづるエッセイ、つまり彼が八十八まで続いた生そのものが、読者にある種の希望を与えていたからではないだろうか。自身の言葉を振り返ることは虚しいが、他の人が残していった言葉は人の道標となりうる力をもっている。