北へ遠征していた妹から送られてきた蟹とホタテ。固い殻の隅々まで肉が詰まっていてはち切れんばかり。すごい身詰まりだった。

夜、先日問い合わせていた外国語教室から、こちらの都合に合う講師は今のところいないとの知らせ。色々と当たってくれていたようだが、第一候補だった日本人の講師は観光関連の仕事で多忙を極め、他のネイティヴの講師も所用で空いていなかったりバケーションで連絡がとれなかったりという状況だそうで仕方ない。いくつかの学校に連絡を取ってみて、首都圏といえどもこの言語への学習の需要がいかに少ないかを実感した。受付の人との話から推測すると、各校ともほとんど講師を抱えていないか、あるいは数少ない講師を複数校で共有して、申込みのあった教室に随時派遣されるという状況のようだ。話し手のほとんどが、日本との交易が盛んとも言えない人口1000万強の国の人々で、その中には世界的な(あるいはヨン様的な)セレブリティーもおらず(20世紀以降のギリシャ人の名をどれだけ挙げられるだろう。マリア・カラスクセナキス競馬ファンならニアルコス・ファミリーあたりか)、しかもギリシャ語は古代ギリシャの時代からは文法も語彙もかなり変化してしまっているため(四年前に室伏広治が金メダルの裏の刻まれた詩文を読んでもらおうとアテネ市民に訪ねて回ったけどほとんどの人がお手上げだったという逸話があったよね)、いくら学んでもホメロスプラトンヘロドトスソフォクレス新約聖書も読めるようにならない、さらにほとんどの観光施設では英語が不自由なく通じてしまうということなので、英語や他の人気言語を学ぶきっかけになる動機がもともと乏しい言語なのだ。僕がこの言葉を齧ってみた理由は、一つには妻が当地へ持っていく知的荷物の重さ(何しろ古代ギリシャ人によって書かれた文献で良く知られている叙事詩、悲劇、喜劇、歴史書の類はほとんど読んでしまっているようだから)への対抗意識から。もう一つは高校の頃から憧れてきた場所へのリスペクトを確認する手段として。プレゼントを考えたり、手紙を書いたり、料理を作ったりするのと同じで未知の言語を学ぶという行為には、その行為に集中している間ずっと意識の裏側で相手のことを想い続けることで、相手への気持ちを高めたり温めたりするという儀礼的機能が確かに備わっていると思う。
というわけで