国語辞典なんて中学入学時に学校で買わされた『岩波国語辞典』以来、あまり手にすることもなかったのだが、今日ふと興味が生じたので近くの本屋へ買いに行ってきた。あれこれ立ち読みしながら選んだのは、語釈がユニークと定評の『新明解国語辞典』。帰って早速ぱらぱらページをめくっていると、中高の退屈な授業中はこうやって漫然と言葉の意味を読み続けていたこともあったよな、と誰もが経験したであろう昔のことを思い出して少し懐かしい気持ちになった。辞書を読書対象としてそこに沈潜しつつ読むという作業は、言語のlangueとしての一面を最も典型的に僕たちに実感させてくれる行為だ。ある言葉の意味を調べると、そこには他の言葉を使った語義が載っている。次にその言葉を調べるとまた別の言葉によって説明される。この参照の連鎖は、辞典という閉じられたシステムの中では絶対に終わらない。言葉の意味は、決して究極的な根拠をもつことはできない。しかし、だからといって僕らは辞書を読みながら認知的錯乱に陥ることもほとんどないだろう。僕らが調べたい語の意味を知るのに、たいていの場合は一回引くだけで事足りるのはなぜなのか?
それはlangueという一見システマチックで整合的な体系が、その言語を話す人間の共通体験なりcommon senseなりという、非常に曖昧で茫漠とした実体をあらかじめ前提としていてそれに外的に依存して成り立っているからだ。common senseを当てにすることなく、例えば「引っかける」という言葉を定義するのは事実上不可能に等しい。そしてこの性質は言語にかぎらず、他の多くの知的体系に対しても当てはまることだ。例えば、施行日の記された法律がいつ有効になるのかという問題を、法律の体系内で解決することはできないように。自然から人間道徳までも含む森羅万象を知的に整理してしまおうという若い野心の多くが初めの挫折を経験するのは、たいていこのポイントではないかと思う。ならばと意気を奮ってcommon senseとシステムとをつなぐ連絡路のプロトコルを研究し始めたとしても、またcommon senseそのものの探究に乗り出りだしたとしても(精神分析や最近の脳科学の試み)、土俵を替えるだけで結局は同じことなのだ。そこまで意識的であるかは別にしても、そのようなことを感じながら辞書を読んでいると、言語という内海の上を漂っているような独特の浮遊感を味わうことができる。
そうは言ってもこの『新明解国語辞典』は、語義だけでなくそれぞれ語が運用される独特の場面や状況についても比較的詳しく説明してあるので、「あほ」を引けば「ばか」とあり、「ばか」をひけば「あほ」がある、というような不毛な(まさにlangue的な)相互参照はできるかぎり避けられているという印象を受けた。「かげながら」という語をネット版『大辞林』で引くと「当人に知られることなく。よそながら。ひそかに。」とある。一見これで良さそうだがこの定義では「かげながら財布を盗んだ」という日本人のcommon senseにとって違和感を生じる表現も可能になってしまう。『新明解国語辞典』には「当人にはわからない所で、その人のために心を尽くす様子。」とあり、「かげながら」が修飾する動詞の一般的な目的(その人のために)を付記することによって、使用状況が的確に限定されている。もう一つ「放尿」を両辞典で調べてみよう。『大辞林』では「小便をすること。」と、やはり言い換えによって逃げているが、これも僕たちのcommon senseにとってはややもの足りない。『新明解国語辞典』では「(所構わず)小便をすること。」とあり、この語感がもつ放埓な印象を表現することに成功している。
こうやって色々と調べながら、辞書を作る人々(lexicographer)の定義力に感心していると、次第に自分ならどう表現するだろうという考えも浮かんできて、これもまた言語野にとって面白い刺激になる。さっきの「放尿」について「小便をすること。」に付く修飾語を妻にクイズとして出題したところ、「飛ばす意識をもって」、「解放感とともに」と速攻で二つ返って来た。どちらも気持ちはよく分かるのだが、さすがにこれでは辞書には載らんだろうなぁ。