息子が生まれるまでほとんど気にしたこともなかったのだけれど、いつも利用している電車の路線にはいくつかの種類が車両が走っている。月齢で六カ月にもならない頃、彼がホームに電車が入ってくるのを知るとベビーカーの上で両足を跳ねるようにバタつかせるのを見るのが楽しみで、前もって「○君電車が来たよ」と教えていた時には、僕たち大人は車両の違いなど意識もしなかった。息子がいくつかの色を覚えて、「○君、次は何色の電車が来るかな?」と謎かけをしていた頃になってようやく、青と赤の車両があるのだと意識するようになった。彼が色の違いだけでなく、新旧何世代にもわたる車両の種類があると認識しだしたのはここ一カ月のこと。同年代の子が電車を見て「○○系だ」と叫んでいたのがきっかけだった。車両の系列に興味を持ち始めたのを知った僕らは、電車が通るたびに車体の横に刻まれた数字を読み取り、「○○系だよ」と教えつつ、彼の学習のスピードに追い付こうと、それぞれの系統の特徴を必死で頭に叩き込んできた。正面の真ん中にドアがあり、一番レトロな雰囲気を持っているのが7000系。8000系と9000系は正面の左側にドアがありよく似ているが、連結部がカバーで覆われているのが9000系。10000系と11000系は正面にドアがない新型の車両でこれもよく似ているが、ヘッドライトが下についているのが10000系で、上についているのが11000系。何とかここまで特徴をつかんで、少なくとも正面から見ればそれが何系の車両かは判別できるようになった。ある時期まではこの知識で十分息子と張り合えていた。ところが二週間くらい前から息子は車体の側面を見て系統を言い当てるようになった。数字はまだ全く読めないはずなので、僕らは驚いて側面にある特徴を探ろうとしたが、7000系、8000系、9000系はそれぞれ赤と青の車両があり、色分けも似ているのでペイントを手がかりに区別することは難しい。それよりももっと難解なのが10000系と11000系の判別で、これはわざわざ停止している車両の写メを撮って検証した結果、それでも違いが全く分からなかった。10000系と11000系をどうやって見分けているのかと息子に訊いてみると、10000系の側面には「めんめ(目)」があり、11000系には「めんめ」がないのだという。それを聞いてから妻と二人でもう一度念写するかのごとくに写メを見比べたものの、全く同じ車両のようにしか見えず見分けがつかなかった。本当に違いがあるのかさえ訝しく思えたけれど、なんにしても百発百中で言い当てるのだから何らかの特徴を彼はつかんでいるのだろう。それどころか、先日歩道橋の上から電車を眺めていた時から、屋根の部分を見ただけで何系かを当てられるようになった。更に驚くべきことに今日、線路沿いの道を上って家に着く手前で、駅に到着した電車の音を聞き「9000系来たね」と言う。まさかと思って、急いで電車の見える通りまで戻り、駅から出発した電車が目の前を通るのを待っていると、本当に連結部がカバーで覆われた9000系だった。
息子に限らず、子どもが示す驚くような認識能力に関する話はよく耳にする。遠くを走る車の車種を言い当てたとか、鳥の鳴き声を聞き分けたとか。そしてそんな話には必ずと言っていいほど「子どもの可能性は無限大」という尾ひれがついて回ってくる。けれども僕はそういう見方は少しナイーブに過ぎるのではないかと思う。子どもは言葉をもたない存在である。言葉をもたないということは、言語が受け持つ意味分けや認知の枠組みをもたないということだ。それは一見自由であるように見えるけれど、言葉を話せないという、この世界で生きていく上での圧倒的不自由に対する補完的な自由なのではないだろうか。電車の音を聞き分けたり、録画した映像の順序を完全に記憶していたりする子どもの能力に大人は驚嘆するが、サヴァン症候群の人々の多くが実生活で苦労しているように、周囲を正確に射影するだけではこの世界で全うに生きていくに足りない。大人たちが喜ぶ、文脈から外れた子どもの自由な受け答えも、状況を的確にとらえ、共通の枠組みにしたがって相手に意思を伝えるという目的にとってはかえって仇となるだろう。大人たちは、幼気な子どもが見せる大人勝りの能力を見て、このまま成長すればどんな人物になるのだろうと夢想するが、その期待に対する結果は周囲を見渡せば誰の目にも明らかだ。そのような能力を保持したまま大人になれる人間はほとんどいないのである。では子どもは何のために、大人に儚い期待をもたせるこのような能力を備えているのだろうか。言葉を習得するため、という逆説を僕は考える。人間が作り出した最も複雑なシステムである言語を完全に習得するためには、子どもが見せる超人的な能力が不可欠なのだ。自分にとって未知の言語の音節を聞き分けたり、文字を読み取ったりすることは、電車の音を聞き分け、車体の意匠を判別することよりも遥かに難しい。このことは、アラビア語の発音や文字を思い起こしてみれば容易に想像がつくだろう。そうして一度言語に付随する認知の枠組みを身に付けてしまうと、物事はその文脈にしたがって理解されるようになり、もはや写し取るように学ぶことはできなくなる。英会話の商材が謳う「子どものように言葉を学ぶ」ことは、言葉を身に付けた人間には不可能になってしまうのだ。子どもは、この世界で生きていくために不可欠な道具を手に入れるために、一生に一度限りの能力を幼少期に使い果たす。そうして獲得した便利さと引き換えに自由を失うのである。
言葉について考えるとき、よく思い出すのがバベルの塔の昔話だ。生まれたばかりの人間にとって、地表は高みから隅々まで見渡せる透明な世界だった。聖書には「一つの言葉」とあるが、そこには言葉すら要らないほどの充溢した時間が流れていたに違いない。展望台からの完璧な眺めに満ち足り退屈した人間は、羽根を使って地上に向かって舞い降りてくる。地面に辿りつくと突然塔は崩れ、土煙が舞って目の前が見えなくなる。あれほど自由だった視界はもう全く利かない。周囲には混乱した人々が発する呻きのような音があふれている。土埃が喉に入り声を出すのも辛いが、それでも声を出して自分の存在を知らせなければ、人の体が次々にぶつかってくる。やむなく必死に発し続けた呻きや叫びが、次第に分節化し言葉になっていく。視界が開けないまま、人間は言葉をぶつけ合うことで相互の連絡をとるようになる。相手の名前が言葉によって呼ばれ、自分の気持ちが言葉によって言い表わされる。誰もが塔の上での生活を懐かしんでいるが、それでもやがて泥に塗れたこの雑踏を楽しむための合図が考案されるだろう。また、塔の上からの眺めを想起させる言葉を発する者が現れるだろう。こうしてユーモアが生まれ、霊感は芸術家の上に降ってくる。だからこの地上を恐れる必要は何もない。かといって急いで降りてこなければいけない理由もない。Let him take his time. 羽根をたたまない天使はどこにもいないのだ。