色々書きたいこと(というより、書くことによって考えをまとめたいこと)があるような気もするが、仕事への没入が深すぎて、仕事を離れると脳に糖分が残っていない状態が続く。今日は誕生日。妻がリンゴのケーキを焼いて祝ってくれる。息子ともいつもより多めに遊んだ。先日絵葉書を整理していたら、遠距離時代に僕が妻に送った手紙が出てきた。大いに赤面したのは別にして、二十代前半の僕が今の仕事に対して抱いていた思い入れの強さに我ながらびっくりしてしまった。いや、思い入れというよりその次元を超えた病的、偏執的な拘り。あの頃の生死を賭したと言っても言い過ぎでない、熱に浮かされるようなテンションはもう僕の体内にはないけれど、当時の一心不乱に費やした研究の期間がなければ、今の僕を支える思考形態も作られることはなかっただろうと思う。絶対音感や言語の習得などに臨界期という言葉が使われるが、二十台という時代も、ある種の情熱的習得にとっての臨界期と言えるのではないだろうか。短期のゴールを設定して、それを逐次クリアするような仕事の仕方を続けていると、自身の現状を微分係数的に捉えることしかできなくなってしまいがちで、自分が長期にわたって歩いてきた軌跡の必然性を肯定的にacknowledgeすることが難しくなってしまう。最近の僕自身がその隘路に嵌ってしまっていて、より良き未来へ進むための現状の否定と打開を是とする思考から逃れられなくなっているところがあった。家族に承認と愛を与えること、仕事を通して社会を支えること、良き市民として生きること。その他にも人生を歩む上で人それぞれに抱いている価値観があると思うけど、その評価軸から見て、自分がそこそこdecentな位置にいることが確認できれば、病気や人間関係の行き違い、仕事での失敗や社会との齟齬などは軽くやりすごすべき瑣末な問題に過ぎないという見方もできるだろう。理想というものは本来このように自分を承認してくれる大らかな価値観のことであるはずなのだが、僕らが思い描く理想は、往々にして他人の長所の寄せ集めであったり、瑣末な問題の包括的な解決であったりするから、逆に僕らはこれに苦しめられてしまう。僕らの思い描く理想を全体として備えた人間など一人もいないことを思い出して、大らかな価値観の中で自分を承認する視点を獲得することができれば、僕らはもっと楽に生きられるのではないか。上手くまとまったかどうか分からないけど、眠くなったので今日はこの辺で。