ベトナム語であるが、五年前から、この言葉を話すの人々と何十人も出会ってきたのに、自分もという気になれず、彼らに日本語を教えるときも英語の分かる人には英語で、分からない人には既知の日本語を敷衍してという調子でずっとすませてきたところ、やっと重い腰を上げる気になったのは、九月に見たテレビ番組で三井物産の若手社員がトルコ語ポルトガル語を自在に話しているのを見てからで、所謂エリートコースに乗った雇われ人に対する「(この人たちには)絶対に負けない」というほとんど一人相撲的とも言える対抗意識は、自分でも呆れるくらい強い。
教材は、何年か前にギリシャ語の学習で使ったエクスプレス・シリーズ(のリニューアル版)を使った。このシリーズには共通して、読者が手っ取り早く外国語の全体像が把握できるための工夫が凝らされている。文法知識がある程度詳しく解説されていること、巻末に収録された簡便な辞書、母国語の話者によって吹き込まれたCD等の配慮の行き届いた構成は今回も大変重宝した。全部で20課あり、これを全文暗唱しながら40日で終える、というスケジュールを立て順調に進んでいたが、途中から章の終わりに本文とは脈絡のない単語と例文がそれぞれ50と20ずつ無造作に挿入されるという事態に直面して多少面食らう。それでも何とか時間を見つけて日程をこなし40日目に終えることができた。
ベトナム語はまずもって声調の言語と言われ、個々の母音に対して設けられた、中国語を上回る6つの異なる声調(音の高低変化)が特徴とされるが、日本人には難しいとされるこの声調に注意しながらCDの音声に耳を傾けるにつれ、ベトナム語では肯定文であれ疑問文であれ、声調記号を逸脱した発音はほとんどなされない分だけ、外国人にとっては親切なのではないか、と思うようになった。例えば日本語の場合、外国人はまず「あ・い・う・え・お」、「か・き・く・け・こ」、…という文字(ひらがな)と音との対を、それらが正確に対応付けられていることを信じ込まされた上で学ぶことになるが、それを元にいざ「おかあさん」という字面を発音しようとしても、「おかあさん」の「お」も「さ」も「ん」も、「あ・い・う・え・お」のそれとは違う音である点や、東京式アクセントなら「お/か\あ\さ/ん」という音の高低があること等の情報が、「おかあさん」という表記に含まれていないため、外国人がひらがなの知識だけを元に単語を正確に発音することは事実上不可能である、という事情がある。これを考えると、元来漢字によってなされていた表意的な表記(チュノム)が17世紀にフランス人によってアルファベットを元にした表音的表記(クオック・グー)に人工的に書き替えられた結果とはいえ、こと自分でそれらしく発音してみることに関しては、ベトナム語の外国人に対する敷居は言われているほど高くないように思う。
語彙についても、全語彙の6割程度を占めると言われる漢語由来の言葉(「歴史」は「リックスー」、「留学」は「リュウホック」等)には日本人にとっては覚えやすいものが多く、また文脈上明らかな場合に主語を略す習慣や、動詞と補語、修飾語と被修飾語の順序にあまりこだわらないいい加減さなど、日本語と共有する特徴も少なくない(外界に向かって整序の力を揮い、外からの目線に対してもオープン・分明たろうすとるフランス語や英語に見られる普遍性への偏執はこの言語にはない。つまり旧帝国の言葉ではない)。どんな外国語でもそうだと思うが、結局のところ一番の難関は、母語の話し手によるナチュラル・スピードの会話の聞きとりであって、これに関してはかなり聞き込んだCDの会話文であっても、時間をおいてランダムに再生すると何を言っているのか全く分からなくなる、ということが頻繁に起こるので、現在の自分の年齢も考えると、教室で囁き合うベトナム人同士の会話を聞き取れるようになる自信はなかなか持てない。ただ、40日間の聞き取りのトレーニングによって、なぜかこれまで難儀していたNBAの黒人選手のインタビューの聞き取りなど、英語のリスニングが目に見えて上達したのは、思いがけない副産物であった。外国語の音はどれも同じ脳内モジュールによって処理されるのだろうか。
ギリシャ語を勉強していた期間にも感じたことだが、語学の勉強には、それを母語とする人々へのうっすらとした愛が伴うという意味で、他の勉強とは異なる喜びがある。今週おそるおそる僕が発したベトナム語を、彼らは笑顔で受け入れてくれた。ギリシャ語は旅行から帰ってきてぱったりとやめてしまったが、今回は細々とでも末長く勉強していけたらと思っている。