6月17日の毎日新聞この記事を読むまで、僕は自動車工場で働く工員たちの仕事について具体的に何も知らなかった。「塗装の汚れを肉眼で調べる工程」、「わずかなほこりの付着も許されない。10分間のトイレ休憩と45分間の食事を除き8時間立ち詰めで、数時間の残業もざら。汚れを見逃せば工程長が飛んでくる。下手をすれば始末書を書かされる。」、「塗装面をにらんでいると、すぐに目が痛くなる。手でこするから目が真っ赤になる。初日で辞める者もいる」。こういった問題を考える際には偉大な先例として、工員たちの労働の過酷さの中に身を置いた上で、そこから社会的搾取の構造へと告発の視線を移していく『自動車絶望工場』や『蟹工船』的手法が思い浮かぶけど、ここではそれらとは少し異なった角度から、精度の悪い頭なりに考えたことをまとめてみたい。
僕がこの記事を読んでまず思ったのは、僕らは彼ら自動車工員たちの仕事に対して、「感謝」の気持ちを発動し表現するという回路を、個人の情動のレベルでも、社会システムのレベルでもほぼ完全に失っているのだということだった。ピカピカの新車が、あるいはきちんと整備された中古車が納車された日のことを覚えている人は多いと思う。僕も高々60万円のバイクの話だが、まぶしいほど真白に磨き上げられた新車のままガソリンスタンドに乗りつけて、ニヤニヤと近寄る店員に「新車っすか」と話しかけられた嬉し恥ずかしい体験は今でも忘れられない。なぜその嬉しさが、目を傷めながら立ち詰めで塗装作業に携わった人々への感謝に繋がらなかったかを考えると、その理由は単純で、僕は既にしかるべき(due)対価を払った上でそのバイクを手に入れていたからだ。現代日本の二輪自動車産業の技術力に対して称賛を行う義務からも、ましてや塗装を担った工員の労をねぎらう義務からも、僕はその対価によって解放されている。嬉しさの焦点は、金という力によって望む商品を手に入れた自己の達成に向かっていて、市場取引における裏側、つまり市場に商品を送り届けた他者の達成に向かうことはないのだ。金という媒体には買い手の発見と売り手の発見という2つの偶発性を克服する効果の代わりに、市場の向こう側を不可視にするという副作用がある。もしこれが仮に、僕が個別に自動車会社に赴いて、独自にゼロからの生産を依頼した商品だったとしたら、設計・組立て・試験・塗装の全行程を見守る中で(例えば料理人が目の前で素材の処理から盛り付けまでオーダーメイドでやってくれる時のように)、生産者の存在を強く意識することもできただろう。しかし現在の多くの商品市場においては、買い手がわざわざpersonalizeした注文を行うこともないし、売り手が店を開いて個々の買い手を待つという非効率を甘受することもない。
消費における喜びが、入手とそれに伴う誇示に依拠していて、感謝に至ることがない、というのは、僕に限らず現代の消費者の一般的な心性なのだろう。では現代人はどのような場面で感謝の気持ちをもつのか。「ありがとう」は「有難い(rare)」と書く。また「ありがとう」の前には頻繁に「わざわざ」という副詞が付けられる。これは、競争的な社会においてめったに見ることのできない善意や、相手方の身を犠牲にした貢献が、感謝のための文化的な条件になっていることを示唆しているように僕には思われる。電車で自分の安楽を犠牲にしてわざわざ席を譲ってくれた人は感謝に値する一方で、自動車工員の作業はそもそも善意に基づいたものではないし、消費者から支払われたお金を給料として得ているのだから感謝には値しない。相手の感謝に値する行為(自己犠牲を伴う行為)によって自分が得たものは、感謝に値しない行為(自己犠牲を伴わない行為)によっては得ることができないのだとすると、この主張の背後には、一方が犠牲にならなければ他方は得を得ることができない、という思想が潜んでいることになるだろう(砂漠で飲み水を奪い合うイメージ)。これは本当だろうか。
もちろん経済活動は、砂漠で飲み水を奪い合う行為とは異なる。そこには必ず貨幣や労働を含んだ財の交換がある。ここでパレート最適という初歩的な概念を思い出してみる(図を参照)。パレート最適とは「参加者の誰かを犠牲にすること(つまり誰かの善意)なしには、他の誰もこれ以上効用を増大させることができない状態」のことを言う。パレート最適でない状態は、この定義から誰の観点から見ても不合理な状態である。というのは、パレート不最適な状態からは、他の誰も犠牲にすることなく(他の誰の善意に頼ることもなく)誰かの効用を増大させる状態へ(図中のa,cからb,dへ)移ることができるからだ。前の段落の後半の思想はすでにこの時点で誤っていることになる。これらの用語を使って、前段落の感謝のための条件を言い換えてみよう。感謝に値するのは、あるパレート最適点(図中のd)から他のパレート最適点(図中のb)への移行を可能にした誰かしら(OA)の犠牲であって、パレート不最適点(c)からパレート最適点(b)への移行に関しては、OBの効用を増大したOAの貢献は感謝に値しない、と。
経済学では、競争均衡がパレート最適をもたらすと説くが(厚生経済学の第一定理)、これは黙っていればパレート不最適からパレート最適へ自動的に移行するということでは全然ない。(c)から(b)への移行のためには、一般的に財配分の状態把握と、交渉、契約、契約に基づいた財の交換が必要で、ひとえに「競争」と言ってもこれだけの過程が含まれているのである。僕らの社会は全くの混沌ではない。そこには善意ならぬ無数の協力が交わされ、最低限の人間的な秩序が成り立っている。もし誰もがそんな協力さえしなかったとしたら、60万のバイクは決して60万では買えなかっただろう。それでもOAの協力に対して、OBは感謝する必要がないだろうか。
もちろんパレート最適は資源配分や所得分配の平等性については何も指南してはくれないことを忘れてはいけない。OAが有利なように見える(d)もOBが有利なように見える(b)も共にパレート最適である。もしかしたらこの平等性の問題こそが、今最も問われている課題なのかもしれない。でも僕らは今すぐに革命を起こそうというのでもないだろう。half emptyの視点からではなく、half fullの視点から、グラスを満たす夢を見ていくこと。有り体にいえば、60万のバイクが60万で買えることを、その背景全域へのconcernを怠ることなく、感謝すること。地球規模で進行する事態に対して、唯心論的な心がけだなんて全く頼りない話かもしれないけど。