いつもにも増して素朴なことを書く。
子どものためにガンバルガンバルと唱えてきた自分だが、今日一つのことに気がついた。男親だったら一日二十時間働くとか、女親なら寝不足を押して夜通しあやし続けるとか。こういうことは扶養義務の範囲に収まる行為で、成し遂げたからといって威張れるようなことでは全くない。やって当然。その程度のことは覚悟して親は子どもを迎えている。
だからといって親は完全体で子どもを迎えられる訳でもない。三十年間生きてきた人間は大抵修復の不可能な傷を負っていて、それが人の内部に相応の空洞を作っている。遺伝が第一の、養育環境が第二の天性だとすれば、空洞は第三の天性のようなもので、容易にこれを埋め合わせることはできない。心的外傷、尊厳の剥奪、恐るべき喪失やいじめ等の体験が空洞の中心にあって、僕らの中にある、僕らの望まない性向の多くはこの中心から流れ出す負の感情に支配されている。抑うつ的な傾向、血の上りやすい性格、人間不信、僻み、臆病。繰り返すが、僕らが空洞の中心にある痕跡を消すことができない以上、これらの性格は直し、克服することはできない。そのくせ、それは僕らに無様なふるまいを要求し続ける。
ではどうすればいいか。負の感情に圧倒されそうになった時、敗北主義的にこれに嬲られ続けることをやめよう。組み付いて体勢を入れかえる。マウントでボコボコにされる寸前に、剛力を振り絞ってブリッジで返しマウントを取り返す。そして息を整える。相手の息の根まで止めてしまうことはない。それは誰あろう自分の分身だから、生かして握手でもして別れればいい。ただこいつに負け続けることだけはもう沢山だ。
怒りが沸点に達したときに、自らを鎮めること。屈辱を与えた敵を、何の見返りもなく許すこと。自分を超えて行った友人を、形だけでも祝福すること。嫌われたくない相手に、気持ちを伝えること。理不尽な不遇を、一瞬でも感謝すること。悪夢を引きずる朝、寝床から飛び起きること。
子どもは親の葛藤を見ている。そして親がどれだけ不完全な存在であっても、勇敢な戦いはしっかり心に刻んでいると、買い被りなく僕は信じる。