第一日目の大掃除のあと、ETV特集「大東京の真中で、一人〜詩人・中原中也を歩く〜」を見る。
町田康中原中也ゆかりの地を訪ね歩くというドキュメンタリー番組。医師の家に生まれ待望の長男として育てられた生い立ちから、帰郷を志した矢先に病に倒れ伏すまで、主要な事件(弟の死、三角関係、息子の死)を紹介しながら、その時々にまつわる詩の朗読を織り込んでいくというオーソドックスな評伝もの。途中、中也の詩に曲をつけて熱唱するグループや、中原中也の生まれ変わりを自称するおかしなシャンソン歌手が登場したりといった場面はあったものの、朗読に重ねられる各所の映像が美しく、全体としてはかなり好印象の番組だった。ナビゲーターの町田康無頼派とされる作品の作者イメージとは程遠く、厚手のジャケットを着て肩をすくめながら頼りなく歩いていくさまが映画版『電車男』の山田孝之みたいだったが、彼の朗読はとても良かった。内側に沈み込んでいくようなくぐもった声、所々で言いよどむような語の切り方など、こうやって詠んだら良いのか、と気づかされたようで新鮮な想いがした。あれは詩吟にこだわった詩人・中原中也への最大の敬意だったと思う。山口、京都、東京、鎌倉とカメラとともに探訪していく中で(京都今出川付近の下宿跡付近は学生一年目のときに自転車をこいで見に行ったのが懐かしかった)、今までに読んできた評伝(大岡昇平小林秀雄、新潮日本文学アルバム)には載っていなかったエピソードも出てきて、自分としてはこれまで見ようとしてこなかった彼の人となりに対するイメージを作る貴重な機会でもあった。まあ予想通りというか、だからこそ自分はそういうところを見ようとしなかったのだと思うが、実像は要するにさみしがり屋の人格破綻者だった、とまとめてしまっていいだろう。詩人としての自分を認めてもらうために、喫茶店で知り合いを待ち構えて無理やり朗読を聞かせるので客足を遠のかせ終には店をつぶしてしまったり、同人誌を刊行したものの本気だったのが自分だけだったと分かって片手間で参加していた仲間に咬みついたり、子供に詩行を継がせようとしてそのための計画を持っていたり、等の話には何度も笑わざるをえなかった。ショックだったのは友人の家の納屋で藁の上に寝転んでいる珍しい写真で、そこに写っている姿ときたらくたびれやつれ果てた中年そのものであり、和製ランボオを気取った有名な近影像とはまるで別人の風貌だった。朗読される詩自体は変わらぬ普遍性を保つ一方で、無垢の神童という公認のイメージが徐々に剥がされていくのは何とも奇妙な感覚だったが、番組が終わってからしばらくして、この人の場合、作品との関係性という点で、独特の在り方があったのではないかと思うようになった。例えばベートーヴェンゴッホなどは、作品が喚起する情動と伝記が伝える作者の人となりとの間にわかりやすい一貫性が示されているが、一方で『いとしのエリー』の作者がスケベなおちゃらけキャラであったり、尾崎豊に冗談好きの気さくな素顔があったり、といった話も我々はそれほど抵抗なく受け入れられる。前者は、芸術とは作者の情念の表現であるというロマン派的概念から自然に派生する芸術家像の典型であるわけだし、後者の生き方は、繊細な精神はユーモアを好むという世間知から自然に理解されるだろう。逆にいえばベートーヴェンゴッホが作品に対しても人生に対しても等しく己のうちに湧き上がる情念を傾けたのに対して、桑田佳祐は言わずもがなあの尾崎豊でさえ、「うまくやっていく」という処世の術を身に纏わざるを得なかったと言えるだろうし、そのことは更に、世を渡る人間である作者が作品に対してとらざるを得ない距離感、作為性のようなものも示唆してもいるだろう。桑田佳祐は一曲を書き上げる際の消耗と完成後の疲労困憊について語ったことがある。尾崎豊が晩年苦しんでいたのは、十代の頃のような瑞々しい曲が書けないからだった。中原中也に関するそのようなエピソードを僕は聞いたことがない。彼も十分疲れ苦しんでいたが、それは創作に由来するものではなかった。彼が疲れ苦しんでいたのは、人生と世界に対してであって、世に問う作品の不出来に関するものではない。その意味で彼と作品との距離はほぼ無に等しいものだった。かといって彼は、疲れや苦しみをそのまま作品化したのでもなかった。生身の彼は妬み、嫉み、やっかむ存在である。彼は恋人に粘着し、恋敵に嫉妬し、自分を詩人として認めない世間に憤激する。しかしそういった浅ましき感情が、彼の詩の言葉となったことは一度もない。彼の魂からこぼれてくるのはだただ純化され、昇華された悲しみ、望郷、流れいく時へよせる想いだけだ。この落差が僕にとって大きな謎として残る。逸話で語られる彼の素行の悪さ、未熟さを考えると、僕にはこの相違が彼の倫理性によるものとも素直に思えないのだ。
精神分析は嫉妬や欲望といった「浅ましき感情」こそ人間の根源だと説明するが、中原中也の悲しみはその遥か奥まで届いている。これだけ美しいのならノスタルジーも人生にとってきっと無駄ではない。彼の詩を読むとそう思える。