今月の仕事は、これまであまり経験のなかったところの開発を1カ月でやらなきゃいけない、という結構大変なもので、正月の時から会社に行くのが憂鬱なほどだった。それが月も迫る内にえらいもので何とか何とか形になったきた。月の初めはわからないことが多すぎてなかなか前に進まなかったのだが、先々週になんとか関連技術の勉強とか復習をやリ終えて、最終週の先週、サンプルプログラムを参考にしながら設計書にあった機能を一気に実装し終えた時には、ふと「オレって天才かも」という錯覚が湧き上がってくるくらいの軽い達成感があった。あたりまえだけど世の中には、スーパーサイエンティストとかスーパーお笑い芸人とかを除いて、天才じゃないきゃできない仕事なんてほとんどないわけで、普通の給料貰ってる人の仕事は本人がどんなに誇りを感じながらやっていたとしても、大抵は他の誰かによって代替が可能なものだと思う。じゃあ普通の仕事はどれも楽勝か、というと、それもまた大きな間違いで、大抵の仕事は、門外漢が傍目から見るほどには楽勝なものではないけれど、やっている本人に「オレは天才かもしれない」と思わせるくらいの深みは相応に持っている、というところに収まっているのだろう。それだけ分業の専門化は進んでいるのだし、それだけ一つの仕事をやる上で世の人が思うほど「能力」というものは大きな役割をもっていない、ということだと思う。
今月の仕事を終えて、これだけの分量のワークを、仕事をやめた自分ならどれだけの時間をかけてやるだろう、と考えてみた。会社に期限を切られて否応なく実質2週間で終えた仕事。家にいながら期限もなくやっていたとすると、計画段階で2倍、実際の作業で3倍はかかっていたのではないかと思う。自分はこの「期限」というものを死ぬほど憎悪しているが、会社をやめて研究生活に入ったとして、その成否は、この「期限」が強いる緊張感に相当するだけのたものを自分に与えられ続けるか、というところにかかっているのではないか。誰もがこのプレッシャーのためにどこか一本切れた状態で、能力以上に仕事をし(させられ)ているおかげで、これだけ平凡に見える人々がこれだけの高度な社会を成り立たせているわけだ。このプレッシャーを内的なものに転化し、道具として利用できたら、どれだけじゃんじゃん研究をこなして行けるだろう。そんなことを考えて、金曜日は会社後の生活を「緊張感」の観点から色々スケッチしてみた。こういうことは、本当に簡単に忘れてしまうから、ちゃんと形に残しておくことが重要なのだ。