動物園の動物が自分の檻の中を首を下げてノシノシといつまでも徘徊していているのを見ると、ああいう威圧的な仕草が野性味の発露であるかのように感じてしまうが、あれは実は動物園の動物が広く患っているノイローゼの一種なのだそうだ。ライオンの檻は、人間の住居の広めのリビングくらいの広さはあるけれど、故郷で野を駆けていた頃の行動範囲に比べると1億分の1ほどの面積しかない。人間で言えば寝返りも打てない懲罰用の独居房のようなものだ。入厩している競走馬の9割が胃潰瘍だ、というのも同じ文脈でよく聞く話である。大型の動物たちは100万年スケールの時間をかけて遺伝子を取捨選択つつ、ようやく一つの大時代の環境変化に適応してきた。「個体としての適応」は彼らの戦略ではなかった。というより、個体を一世代で乗り捨ててでも、その都度の遺伝子のシャッフル=「多様性の可能性」に賭けよう、というのが大型動物たちの進化の戦略だった。彼らのとって、これまで百万年の間に蒙ってきた以上の変化を1世代で通過するという体験は空前絶後のことであり、これに個体として対応するための兵器は彼らのarsenalにはなかった。この状況でもはや彼らがとれる行動は、一時的に反応して衝撃を緩和することでしかない。野性味からかけ離れた機械的な動作の反復は、その下に押しつぶされ膿となった本能の残滓をポンプのように排出する作業なのである。
もっぱら仮想的な画面の凝視と操作を強いられる今の会社の環境。一日の半分をそういう作業に費やす大集団の出現も人類史から言えば未曾有の出来事であった。そういう意味ではわが会社の社員たちも動物園の動物を哀れんでばかりもいられないかもしれない。確かにうちの会社には特異な人間が何人もいる。というか、今年の席替えで今の席に移ってから、周りのほとんどを、何らかの症状を抱えた人に囲まれるという境遇なのだ。
まず1分間に60回のペースで咳払いをする中年社員がいる。喉に違和感があるのだろうが、1時間に3600回のペースで喉を鳴らすというのは明らかに異常だろう。異物を出すというより、なんらかの不安に駆られて、という感じ。次にカーっと痰を吐いてそのままゴクリと飲み込む社員がいる。これは現実に異物を出すところまで行っているのだから、まだ実利的行為のような気がするし、咳払いの比べたら頻度は少ないから許容範囲だが、他の社員が最近これの真似を始めて時々二重唱のように聴こえるのは勘弁してほしい。更に輪をかけて凄いのがオレの真後ろの席の人。この人、2週間くらい前までは、仕事中に「ハァーハァー、クフークフー」と、気持ち良さそうにあえぎ声を上げているだけ(とはいってもそれもかなり気味が悪かった)だったのだが、今週からそれに独り言が混入するようになった。
進捗管理でしょ
進捗管理すればいいんだからー…ハァーハァー
これはでーきーなーいっ、できる
こうしておこっ
ハァーハァー
朝から夕方までほとんど休みなしに思考内容の音声化が行われる。常に何か音を発して、存在の振動を周囲に発信させなければならないという切迫感のようなものすら感じられる。着席や引き出しを開ける音、足音がとても大きい。思考の内容はほとんど仕事に関するものだし、仕事自体はきちんとしているようなのだが、こうして文字として客体化してみると、人間の思考というものも不気味なものだなぁ、などと思ったりする。
どこへ行った
あ、そうだ。
対角線だからー…どこへ?
ハァーハァーハァーハァー
声のテキストでしょ?何…
クフークフー、ハァーハァー
素直に…っと、ジュルルル
これさぁ、要回答の、ハァハァ
クラスID、これない、ハァハァフー
精神病院の落書きのほうがまだマシだろう。アーパーさんはひと目で独身と断言できる感じだったが、この人は(実際はどうなのかわからないが)既婚だと確信させるタイプだ。異性との関係が緊張の契機とならないほど、おそらくこの人は何かに慣れきっている。腹は見事にたるんでいる。いつも右手で後頭部の髪の毛を執拗に抜いており、その部分には毛が殆ど残っていない。人が来ると、甲高い余所行きの声をだす。そしてきまって誰かの悪口を言う。机の上にはIT本に混じってこんな本が置いてある。

日本力 アジアを引っぱる経済・欧米が憧れる文化

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にほんりょく?キモ過ぎだろう…
罵言に近いようなこんな描写を重ねてきていうのもなんだが、自分だって隠しておきたい性癖は五指に余るほどあるし、人のことをとやかく言えたもんではない。が、ただでさえ集中できない仕事のdistractionが増えた今週は正直きつかった。今日出たボーナスで、前向きにiPodでも買って対策することにしよう。
(今度からもっとマトモなこと書きます…)