クレイマー、クレイマー

母さんは5年、父さんはその後の1年半、互いにほとんど一人で子供を育ててきた。夫を捨て子育てからも逃げるように自分探しの旅へ出かけていった母が、帰還して親権を主張した時、二人が争いあうのは、当面、それぞれがたった一人で子供を育ててきた時間についてである。二人は70年代・ウーマンリブ期のアメリカ人であり、闘争の場は<法廷>である。この限りで、交わされるのは、互いに排他的に、他方を否定する言葉でしかないだろう。

  • 母が一人で育ててきた5年間、父は仕事に熱中して家を顧みず、そのくせ母に対しては主婦の役柄を押し付けることしてしてこなかった。西海岸で「精神分析」を受けて、母は自分を取り戻した(笑)。子供はまだ幼い。子供は未だ母親を絶対に必要としている。
  • しかし、現に夫婦関係に失敗して、一度は子供を捨てたのはその母親のほうである。かつて問題のあった父も、この1年半は立派に子供を育ててきた。それは母の旧友ですらちゃんと証言している。そもそも「女性の解放」を謳うなら、「母親の優位性」も放棄すべきではないか。等々

がしかし。
子供のいない法廷で行き交うこれらの言葉は、子供にとって何の意味があるだろうか。
本当に子供に関係があること。それは二人がそれぞれに子供と過ごした時間の中に発見され紡がれてきたもの、また相手と子供との関係の内に垣間見て、双方で本当は周知しているはずのこと。しかしそれらは、「勝つためには相手をつぶさなければならない」法廷で言葉にされることはないだろう。二人は、相手を罵倒する代理人の言葉に首をふり、また閉廷後に代理人の行き過ぎを相手に謝ることでしかそれを表現できないだろう。
法廷の言葉からこぼれ落ちるそれが何であるのか、映画の全篇を通して、父と子の時間を楽しんできた私たちは知っている。だが、それだけだろうか?もう片方の美しいものについては?
映画の最後で、それは忘れられたものとして帰ってくる。冒頭で私たちの目を眩ませた、美しい青と白の光として。映画はそこで、唐突に終わる。この唐突なエンディングは、そのことを忘れていた私たちに下された罰のようにも思える。