東神奈川のスケート場へ行くんだと、息子が帰りのバスの中で先生にお話しすると、二人の先生は、あそこはもう無くなったんじゃなかったっけ、と顔を見合わせていたらしいけど、「神奈川スケートリンク」は二十五年前、友達と部活の帰りに行ったときと同じ場所にあった。屋内なのにクーラーとも外気とも違う冷気と、声を吸い上げる高い天井、密閉した空間。前と違っていたのは施設そのものの性格で、80年代のカップルや若者向けのレジャースポットというよりは、目的意識のはっきりした客層がまじめに身体を動かすフィットネスクラブに近い雰囲気になっていた。特に子ども世代の占める割合が格段に増えていて、メダリストや国民的スターを輩出したブームを経て裾野が確実に広がっているのを感じる。息子よりやや上の学年の子から中学生までがいくつものクラスに分かれてレッスンを行っており、付添いの母親も多い。自分の子どもが転倒すると一緒になって笑っているお母さんもいれば、厳しい言葉で叱咤している母親もいる。子どもの取り組み方もさまざま、レベルもさまざま。でも少なくともほぼ全員、僕ら三人よりは上手い。中には陸上選手と見まがう筋肉をまとってびっくりするほどのジャンプに取り組んでいる若い子もいる。自分の子どもを金のかかる選手コースに入れてみようかと考える親は、少なくとも自身の運動神経にひとかどの自信はある人ばかりであろうから、フィギュアスケートは入門の段階ですでに敷居の高いスポーツなのだろう。そこからコーチの目に止まった筋肉と神経の持ち主が手塩にかけて育てられ、毎年県代表レベルの数名が選抜される。もしかしたら十年に一度はこのリンクからも全国大会の優勝者が出ているのかもしれない。それでもあの年は不作だったなどと言われ、そうやって最後の一砂が残るか残らないかまでふるいにかけられた結果が、今年ロシアに乗り込む選手団なのだと想像してみると、シンプルな階層構造とはいえ、貸靴でよたよた漕いでる一般人にとっては、頂点はやっぱり雲の上に出ている。シンプルな階層と言ったが、それは例えば、同じく階層化された偏差値や学歴が、性格や努力、発想という個性的要因によって逆転されることが通常である他のほとんどの業界・業種と比べてのことで、全国大会のトロフィーも持っていない人間が性格や努力によって期待や抜擢をされることはありえない、ということ。そういう意味では真面目さやコネの通じにくい非常にリジッドな選抜システムでもあるのだけど、達成によって得られる報酬の期待値が決して高いと思われないこのジャンルに投資する親が多いのは、期待値を公正に評価した結果というよりは、選抜確率の見積もりやすさ、計算式の単純さによりかかっているところが大きいのかもしれない。選抜されればされるほど偉いという希少性の価値観を幼いころから植えつけられた人間の思考様式を「脳筋」と呼ぶのだとすれば、官僚的組織のあるところ至る所に「脳筋」はいるのだから、それをバカにできる人間は本当は少ない。
などとよその庭で勝手なことを考えていたが、スケートという運動自体とても楽しかった。うまく歩けないという体験を共有できるし、お互いの四苦八苦している姿をオカズにして言葉を介さずにふれ合える。スケート靴を履くころはワクワクしてたのに、初心者用のリンクに足を踏み入れた瞬間、氷のあまりの摩擦抵抗の少なさに唖然としていた息子は、練習の甲斐あって、ニ時間後には自力でよちよち歩けるところまで上達した。寝返り、ハイハイ、立っち、という過程と違って、技術の上達が自分の努力の結果であることが見えやすい点、失敗(転倒)すればするほど上手くなるという真実を体得しやすい点で、スケートは教材としてとても良い体験を与えてくれるのではないかと思う。スケート靴から靴に履き替えたときの、初めて地面を踏みしめるような感覚も新鮮だった。