春の気配。空は晴れているが、黄砂が浮いているのか富士山は見えず。昼に妻の友達がはるばる和歌山から子ども二人を連れてやってくる。息子と同い年の上の子はしっかりした顔立ちになって一年前に会ったときとは見違えるほど。その時お母さんのお腹にいた下の子は九ヶ月で、お座りしたまま息子と向かい合い何やら交信している模様。
晩は、妹とその子が帰省している実家へ様子を見に行った。こちらも九ヶ月で、男の子なのだが、僕の記憶にある生まれたばかりの妹にどんどん似てきて、まるで生き写しのようで閉口する。息子と甥っ子を両腕に抱えて抱っこしたり、ひとしきり写真を撮ったりした後は、ご飯を食べ、コーヒーを飲んでのんびり過ごした。抱っこしたときの腕に掛かる重みは、やはり今でも上書きされず体の中に残っている。甥っ子をあやしながらすっかり彼の心を捉えてしまった妻の遊び方を見ていても、時計の針が戻って、そうやって息子に対しても不思議な距離感から言葉をかけ続けていた妻の姿が蘇ってくる。妻に体をくっつけて座る甥と、妻、そこから少し離れ、お兄ちゃん風を吹かせてトーマスのテレビを見る息子の三列の並びがとても暖かい。
夜が更けてからは妻と二人で『好人好日』を見た。老夫婦とその娘の嫁入りに纏わる顛末を、昭和三十六年の奈良の明るい光の下に描いた平和で長閑な映画だが、愛されて育った娘は夫婦の実の娘ではないのである。自分が和尚に拾われてきた戦災孤児であること、実の親の名前など誰も知らないことを父に教えられたシーンで、岩下志麻演じる娘はただ一度の激しい感情を見せる。場所はその和尚の寺で、日はすっかり暮れている。静かに娘の嗚咽を聞いていた父親は、肩を抱いて「時子、巡り合わせだよ。みんな偶然なんだ」と諭す。そして「俺の文化勲章みたいなもんだよ、嗚呼」と言い放って豪快に笑ってみせる。そう、この父親は実は(岡潔がモデルと思われる)数学者なのである。言うまでもなく数学に偶然という用語はない。偶然性を排除し、論理的必然性に支配された対象の世界を広げていくのが数学という営みである。それがあたかも、偶発的で入り組んだ人生の問題との境界を定める行為であったかのように、その境界に立って娘に投げられた父の言葉を、子はどのように受取っただろう。昭和三十六年、もう戦争の記憶はこの映画からも姿を消している。娘は自分が大阪の地下道で浮浪児に交じって泣いていたことも、握り飯をくれた和尚に「猫みたいに」ついてきたことも覚えていない。それでも、戦後復興期に作られた多くの名作がそうであるように、この映画の画面にも過去の傷跡がかすかな陰影を落としている。
見ている最中に、これは前に見たことのある映画だということに気づいた。十五年ほど前に、たまたま深夜に放映されていたのを母親と一緒に見たことがあった。見終わって妻を演じた女優の名前を聞くと、淡島千景と教えてくれた。二人で面白かったねと言っていたが、昭和二十年の生まれの母には、自分とは違う感想が残ったに違いないと思った。