「権利」という言葉は、明治より前の時代の日本語には存在しなかった(川島武宜『日本人の法意識』)。明治以前の日本人にも、例えばお金を貸した当人が相手から返済を請求しても良い、という感覚は備わっていたと思われるが、この「〜しても良い」という感覚に対して日本語はそれを指し示す名詞を持っていなかった( "liberty" という語に対して「自由」という訳語が案出されたのは1862年のこととされる - Wikipedia)。「〜しても良い」という素朴な感覚は、日本語の中で明確に定義され、反省されることはなかったのであり、したがって概念としても成立してこなかった。「権利」という概念は、「〜しても良い」という感覚とは出自も scope も明らかに異なる言葉であるが、その語義を定めるためには、翻訳の元になった西洋語を参照して考える必要がある。
明治期に日本が近代法典を模倣したドイツとフランスにおける "Recht", "droit" という言葉には「権利」の他に「法律」という意味が含まれる、という事実はよく指摘される。"droit de vote" は直訳すれば「投票権」であるが、「投票のための法律」という意味も含んでおり、逆に "droit civil" は「民法」であると同時に、「市民の権利」と読むこともできる。ここで示されるのは「〜しても良い」という事柄のうち法律によって保証されているものが「権利」であり、「法律」は市民の「権利」の内容を客観的に規定し保護している、という含意である。一方日本国憲法を起草したアメリカにおいては、「権利」と「法律」は "right" と "law" という用語で区別されているが、 "right" という語には「権利」の他に、「正しさ、正当性」という意味も含まれている。 "I have right to 〜" という文言には、「私は〜する権利がある」を意味すると同時に、「私は〜することに正当性を有している」というニュアンスがある。これらを考え合わせると、日本語では完全に分離して見えにくくなっている「権利」と「法律」の間にある緊密な関係が浮かび上がってくる。つまり、「権利」とは正当性を認めるべき行為の根拠であり、その正当性は「法律」によって客観的に保証される(ている、べき)、ということになる。
ここでもう一つ、よく対比として語られる「権利」と「義務」の関係についても整理しておきたい。この関係は「債権」と「債務」を例にとると、「権利」と「法律」の関係よりもはるかに分かりやすい。当事者AとBがいてある契約を結んだ際、一方Aが相手Bに対して何らかの行為を請求する「権利」をもっている時、相手Bは一方Aに対してその行為をなす「義務」を有するという。そして当然、この「権利」と「義務」との双対関係も「法律」によって下支えされている。つまりBによる「義務」が果たされない時、Aは法的救済(制裁等)を求めることができる。
このように見た時、自民党改憲案第12条にある「自由及び権利には責任及び義務が伴う」という文言をどう解釈すべきかという問題が生じる。「権利」に「義務」が伴うというのは、私的契約にせよ社会契約にせよ、ある契約において片方Aに「権利」が発生するときにもう一方Bに「義務」が発生するという意味で正しいのであって、ある当事者Aが「権利」を有するとき同時・必然的に「義務」を負うという意味では語の定義上正しくないからである。現行憲法第27条に謂う「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」の「権利」と「義務」は、「権利」に「義務」が伴っていることを示しているのではない。「勤労権」と「勤労義務」は、それぞれ全く別の「法律」によって定められるべき社会契約に伴う「権利」と「義務」を示しているに過ぎない。つまり、国民は生命、自由及び幸福追求の権利を有するのであるから、これを実現するための「勤労権」を有し、政府はこの「権利」を保証する「法律」を制定する「義務」を負う、という契約と、国民は法の下に平等であるから、社会福祉のフリーライドを許さず、そのために政府は「勤労義務」を定める「法律」を制定する「権利」を有し、国民はその「法律」に従う「義務」を負う、という契約の二つである。
「権利」と「義務」が同一の契約において同一の者に対して伴う、と考えるならば、それは「御恩」と「奉公」とでも呼び直せば良いものであり、政治家や官僚が「権利ばかり主張して、義務を果たさず」と国民を誡めるなら、彼らは近代的な政府と国民の関係を、主君と臣下の関係と曲解し、「権利」と「義務」の概念をその次元に回収しようとしていると考えられ、その前近代的・封建的意識にはよくよく注意する必要がある。