すべり込みで間に合った星稜-習志野戦の熱をひきずりながら、請われて売店でメガホンを買った。
甲子園のホテルにチェックインして一息つくと、さすがに疲労が姿を現す。晩御飯は神戸で、という話が出たとき、みんな顔を見合わせたけど、結局息子の一声で行くことになった。自分の荷物に加えて一対のメガホンを電車の中に持ち込んで。
神戸。僕の記憶は何といっても五年前に友人から受けた歓待に彩られている。あの当時タワーに熱中していた息子のために、友人はポートタワーのペットボトルをお土産にもたせてくれた。僕も何枚か写メを撮って息子に見てもらうつもりで妻に送った。その念願のポートタワーなのだが。
みなと元町駅を出ると何せ海風が冷たい。タワーへの情熱も昔ほどではなく、三人とも疲れてとかく無言になりがち。妻の提案でコンビニに寄りアメリカンドッグとおにぎり、僕のためのタバコを仕込んだ。そして時間の遅れをとり戻すように、海岸道路を先頭に立ってずかずかと進んだ。日はとっく暮れたのにまだ夕ご飯にすらありつけていない。この上、今日は甲子園に戻り、明日は高校野球を三試合も見なければならないのだ。
その時、至近距離から「はーちゃん!」と僕の名を呼ぶ声がした。「ワァ」と声を上げて振りかえると二人はまだかなり後方にいる。二人とも笑っている。息子の口にはメガホンが当てられている。
「もー、びっくりしたじゃん。え、メガホンってそんなにすごいの?耳元で叫ばれたみたいだった」
「オレにもやってみて」
メガホンを僕に渡して今度は息子が先へ行く。
コンビニでタバコを買ったときに絡まれたときも、電車の中でメガホンを使うのを諫めたときも絶えていたユーモアがようやく出た。駆け出す彼の姿から、子どもの疲労や空腹やマナーのことにこちらの頭が占められていた同じ時間に、彼の中にも等量の想いが巡っていたのだということが、靴音と共に通ってきた。そして妻の中にも。
帰り道、みなと元町駅。人気がなくなるのを確認して、三人で合唱した。"レッツゴー習志野"が長い地下道にしばし響いた。

年に二回は里帰りをしているから、こうして家族三人で新幹線に乗るのはもう二十回近くになっているかもしれない。朧な記憶しかないけれど、最初の一、二回は確か変わりばんこに膝に抱えてのグリーン車だった。すぐに重みに耐えられなくなって三列シートに変えたが、席にジッとしてはいなかった。1号車から16号車までの探検旅行。通路側の席でうたた寝しているところを、帰還した彼らに何度起こされたことか。新幹線の車両に興味が移り、お気に入りの車両が来るまで、新大阪駅のホームでずっと待っていたこともあった。新幹線に乗ること自体が大事件だった時代。
今は駅のホームに上がってもあっさりとしたものだ。乗り込む車両がN700の一番古い型であることを一応は確認し「チッ」と舌打ちして席に着いてからは、妻のスマホを窓際に立ててワンセグ高校野球を見始めた。去年までは途中経過をテキスト速報で見せるだけだったが、いつの間にか機能を見破られている。
窓際にぬいぐるみを立てて、一緒に景色を見せてあげていたこともあった。ガイドブックを片手に、いくつのお城が見えるか数えたこともあった(新横浜-新大阪間で6個もあった)。おばあちゃんと別れた後、目にたまった涙を隠すように頑なに外を向いて窓だけを見つめていたのはついこの間の話。
今はもちろん車窓などどこ吹く風。熱海のトンネルで電波が途切れると不満を言いながら、一人前にアンテナを伸ばし、あれこれと角度を変えながらワンセグと首っ引き。試合に動きがあったときと、お菓子に手を伸ばすときはこっちを向いてくれる。山梨学院が打ちまくり、1回で10点を取ったらしい。
すべては当たり前のこと。城が6個あると数えたら、何度数えてもそれは6個だろう。富士山だって見るたびに形が変わっていたら困る、と思っていたら、富士だけは席を立った僕を追ってデッキまでついてきた。山頂から崩れて来るように北から迫る富士はアフリカの山のように見えた。

一昨日から甥っ子が泊まりにきている。東京で行われているチェスの大会に参加するため。その会場に今日は家族で応援に行った。
東京、大田区池上会館。駅から、和菓子屋とか蕎麦屋とか軒の低い建物が並ぶなだらかな坂になった通りをいくと、本門寺という大きなお寺に突き当たり、その傍らの森の中に会場がある。木々の方に向かって伸びた屋外の階段の上で、楽器を傍らに置いた女学生たちが高い声をあげて遊んでいる。とてものどかな所だ。
会場で甥の父親と遭遇した。日曜なのにスーツを着ていた。東京に出張中らしい。控室で和菓子を食べながら、引退したばかりのイチローの話などをした。彼は僕の一才年上でイチローと同学年。出張期間中に東京ドームの試合を見にいったそうだ。この世代の人間は、社会に出た時期とイチローのキャリアが重なっている。「身体は鍛えられても、眼はなぁ」。
明後日から和歌山に行くと話すと、「釣り、連れてったろか?」と息子が訊かれた。「行きたい」。異様に細かい字で書かれた手帳を取り出し、来週の日曜日と決まった。
会場は屋上に上がると寺院の高台に出る。平らな敷地に墓地と五重塔があり、そばの展望台から町の景色が見渡せる。日暮れ時にその界隈を息子とデート。立ち入り禁止のロープを張った支柱に、珍しいグレーの素材が使われていて、それに気づいた彼に、墓石にあわせてるのかもね、というと彼も笑った。
展望台からはいくつかのビル群が見える。どれがどの町かを僕が尋ねると、彼にとっては当たり前のことを答える照れもあるのか、早口でぶっきら棒にしか教えてくれない。代わりに僕のスマホをぶん取って、パノラマ写真を撮ってくれた。そんな写真を見て、どれが川崎でどれが新川崎なのか、考えようとも思わなかった。ぞんざいな手つきのせいで曲がっている地平線や、欄干の線。その歪みだけが目に沁みていた。

ここしばらく、メモ帳に日記をつけていた。春休みが近づいて、状況の変化に対応できなくなりつつある自分に不安を感じていた。正しく言うと、状況の変化とは息子の成長のことだ。おはよう、を言っても返ってこないことがある。ありがとう、もあまり言いたくなさそうだ。彼の知らないことを僕が口にすると、エラそうに、と言われる。
自分の小さい頃を思い出せば、一人立ちのチャンスを窺う少年にとってこれらはみんな自然なことだ。けれどもその準備が自分の中にまだできていない。これまで彼に腹が立ったことはほとんどなかったのに、内心ムカッとしてしまうことがある。寂しさを感じて凹むことも。
お休みなさい、をしてから妻と話し、妻が寝てからも頭を巡らせて考えをまとめた。忘れてはいけないことはメモに残した。
出産後に妻がつけていた日記のことを思い出した。新しく始まった未知の生活の中で、起床時間を記し、ミルクの回数を数え、息子ができるようになったことを書いていた。そうして夜にそれを見返して、まだ言葉をもたなかった息子について分かったことを、語りかけるような文章で書き加えていた。
無垢の時間が終わるときの寂しさを感じていたけれども、別の美しい時の始まりなのではないかとも思う。メモ帳への日記はしばらくつづけるつもりだ。

近所の食品店で、今日をもって仕事をやめ九州の地元に帰られる店員さんとお別れをした。四年前、大学に進学した娘さんとともに横浜に越してきてから昼間はずっとそこで働いていた人で、アルバイトながら店内の展示や企画に率先して活躍されていた。毎年注文していた味噌のセットや、正月用の魚が店に届いたという連絡をいただいたのもその人からだった。いつも身ぎれいにされていて元気よく、うちら相手に明るく世間話などに応じてくれていたその方が、妻が渡したカードを受け取って泣き崩れたときには、こちらも心を動かされてしまった。別れを惜しむ言葉につぐように、「あなたならきっと出来るから」とその方は何度も言った。何のことを言っているのかはすぐに分かった。いうまでもなく子育てのことだった。そうしてもらい泣きをした妻の肩を抱き、僕の方を見て「本当に可愛くて」とも言われた。
「学校に行きたくない」という言葉を息子が漏らしていた二年前に、妻はそのことを相談したことがあった。その方は、娘さんの中学時代、包丁からハサミまで家中の刃物を隠して夜通し起きていた数年間の話をしてくれた。今大事なことを伝えなければという急いた様子で、「彼の心と一緒にいてあげて」と言われた。「あなたにはできる」。
こちらには鉢植えのプレゼントをいただいた。「海老で鯛が釣れた!」とお道化てみせていた妻が、うす紫色の花を抱えながら家につく直前にこんなことを言った。相談していた方は、一難去ってすっきりしてしまえば案外すぐに世間話に戻っていくもの。でも相談された側はそう簡単にはいかない。最近は話に出ないから立ち直ったのかなと思いながらもやっぱり気がかりで、けれどもこちらから話をふるのもおかしいからと、安心する機会がないままずっと覚えて心配してくれている人もいる。いつもは見せない真剣な表情で話してくれたあの方の顔を思えば、あの方もずっとそうだったのかもしれない。

夕方に突然節々の痛みが増し、体温計を見てから不安になった。39.4℃。いつもの頭痛、いつもの悪寒。多分ただのインフルエンザだ。けれども、この病気に罹ると毎度1%ほどの死の恐怖を感じる。重い病気の人には怒られるかもしれないと思いながら、本当にこのまま脳も体も無傷で快復できるのかと不安になる。現実の痛みに加えて、崩壊していく身体を自分は受け止められないだろうという思いが身を苛む。あぁ、こんな思いをするのも嫌だからあれほど気をつけていたのに。
部屋を閉め切って、どうしても漏れてくる自分の呼吸音を聞きながら布団にくるまっていた。昔とちがって自分の息遣いに可愛げがない。十代の頃なら熱にうなされていても、フーフーと、もっと人からの同情に足るような愛嬌のある声で喘いでいたような気がする。今は味も素っ気もないア゛ーという間延びした音が漏れるだけ。これではなかなか同情してもらえないだろう。自己憐憫の情も湧いてこない。
情けない気持ちで息を切らせながら、途切れ途切れ嫌な夢を見ていた。今の自分に与えられている暖かい布団と飲み水。これらの持ち物も全部剥ぎ取られたとき、自分は何日生きられるだろうという観念がしきりに巡った。お前はまだ不当に恵まれている。お前はまだ本当の苦しみを知らない。そういう声に重なりながらツェランの詩句が何十回も何百回もリフレインする。

夜明けの黒いミルクぼくらはそれを晩にのむ…
ぼくらは宙に墓を掘るそこなら寝るのに狭くない

そうして窓の外が暗くなり、家が寝静まったころ夢の場面が変わった。場所はどこかの駅のガード下で、体操着の子どもたちがお弁当を食べていた。子どもたちは幼稚園児。親たちも一緒にテーブルに集っている。そこに遅れて僕があらわれた。息子と妻のもとに行く。息子はまだメガネをかけていない。
子どもたちの顔ぶれ、青いストライプの入った体操着の柄、すべてが年少組の頃と同じだった。そして新米パパの心に渦巻く子育ての不安のようなものも。
僕が席に着くと、新客の登場に気色ばんだHやNがニヤニヤしながら目くばせして何やら囁きあったのだった。しきりにこちらに目線を送ってくる。その意味するところを解きかねて僕は不安になってしまった。彼らが僕の登場を受け入れない理由は何だろう。息子と彼らの関係に問題があるのだろうか。不穏な空気を察知した息子も、落ち着かないしぐさで言葉を発しはじめた。僕に助けを求めているのかもしれない、HとNを牽制しているのかもしれない。お弁当の時間はこのまま乗り切るとして、食べ終わったら動き出さないといけないかなと思う。みんなを鬼ごっこにでも巻き込んで一発空気をかえてみよう。
そのとき、誰かが僕を見ている気配を感じ、その気配の主をさがした。一人の男の子が僕の方を見ていた。彼の目元には、控えめではあるけどとてもやさしい表情が浮かんでいた。「大丈夫」とか「いらっしゃい」というメッセージを自分の目だけで伝えられると信じてるかのように。僕の心に落ち着きが戻ってくる。「ありがとう」という気持ちを込めて僕が目線を返すと、彼ははにかむようにして顔を下に向け、また弁当を食べ始めた。
「この子は」と僕は思う、「卒園後、息子とは別の小学校に通ってそこで友だちができる。血の気の多いその友だちが、同級生に手を挙げて学校で問題になったとき、この子はその友だちに対してこう言うだろう、『人を叩きたくなったら僕を叩きな。僕なら君にやり返して、二人で喧嘩ができるから』と」

朝になった。寝室の外に耳を澄ませる。息子はもう学校へ出かけたようだ。部屋を出て、冬の日だまりの中で洗濯物をたたんでいた妻にこう言った。「メガネをかけていないあの子に会ったよ」
それに、他の子どもたちにも。五年前の様子を見てきたついでに、彼らに声をかけても来た。大丈夫、君たち、小学校に入ってもたくましく生きている。ずぅーっと親を心配させているけど、色んなことに頑張ったり、友だちを助けたりして、それ以上に親を喜ばせている。また何年か先に、君たちに会いに来たい。そしてまたうれしい報告がしたい。