和歌山へ向かう新幹線の中で。
すっかり暖かくなった。自宅の窓から見上げた空には蒸気のような霞みが昇っていて、駅までの歩道の上では浮かれて土から這い出してきたトカゲがしきりに春のご馳走を物色していた。箱根や大山の山肌を青く染めていた空気の中を貫いて進む新幹線。風景の勾配をゆったりと満喫するローカル線よりも、優雅に距離を越える飛行機よりも、この移動の感覚が好き。一直線の線路も、いさぎよいbulletのような形状も、会いに行く人に向かってまっすぐ伸びていくようで。
一人で過ごした三日間は実家の家族と話したり、病院に行ったり、映画を見たりして過ごした。録りためた映画の中でから妻が一緒に見たがらなさそうなものをと選んだ『アンナ・カレーニナ』は二度目。トルストイの原作は、出版当時、貴族の社交界を背景にした通俗小説、という評価で迎えたそうだけど、前回のソフィー・マルソー、今回のキーラ・ナイトレーを見た僕の評価も、そこから大きくは外れなかった。『戦争と平和』といい(これも実は映画でしか見ていない。ソ連版じゃなくてハリウッド版、オードリー・ヘップバーン)、派手な性格の主人公を中心に愛の破滅の物語を描きながら、対比的に登場させられる実直な青年に愛を成就させるという構図でまとめ上げる作法には、どこか知的・観念的なものの優勢を感じてしまう。対照的な行く末を分けたものが性格や階級なのだとしたら、広い意味での運命論の枠にとどまるだろうし、普遍的な人間性の表現はそこから逃げていくだろう。作家の中に住む相反的な性格が異なる人物に分けられて白黒をつけられるとなると、奔放な情熱家よりも誠実な献身家が救いに近づくという、(僕の読むが浅いことを承知で言えば)「当たり前」を諭すことになってしまう。この小説を当初から年長のドストエフスキーが激賞していたという事実は、二人の作家の資質の違いについて示唆的かもしれない。深淵から沸き上がる力によって、自ら筆をとるというよりは、筆を握らされるようにして書く作家には、知性と観念の営為によって現実を押さえ込むようにしてまとめ上げる作風が名人芸のように映るのかもしれない。作家がカタルシスを伴う終結と再生の構図を犠牲にしてに手に入れるもの何だろうか。"Brothers Karamazov"の兄弟たちがしきりに発する"I'm a Karamazov"には"I'm a human"と置き換えても何ら意味を変じない普遍的な告白がある。
ユダヤ人の迫害はあくまでサイドストーリー的に扱われるものと勝手に思っていた『戦場のピアニスト』は、ポーランドで起こったホロコーストを時系列を追って真っ正面から描いたキワモノだった。バスッバスッと銃弾が撃ち込まれるシーンにおそれをなして、こんな映画とは思わなかったと妻にメールを投げると、彼女は僕がこれを予約したと知った時点から、一緒に見させられるときのための心の準備として、ネットであらすじと結末を調べていたらしく、もうピアノは弾いたのかなどと聞いてくる。そんな彼女に相手をしてもらいながら、主人公が(NBAの)パウ・ガソールに似てるだの、パウが白目剥いてきただの、「パウ、ジャムを舐めて復活!」だの、気を紛らしながら何とか最後まで。昔から戦争ものは苦手、というか悪趣味と思っているところがあって、この前アウシュヴィッツを見てきたと言っていた知り合いにも冷ややかな反応しかできなかったけど、考えてみれば当たり前のことながら、大量破壊兵器と敵部隊殲滅のTVゲームは紙一重だし、無抵抗なまま虐殺される市民へ寄せる共感と、グロッキー状態の格闘家へ浴びせる罵声は根が同じと言えなくもない。大昔からトラウマ解消のための手段として興行されてきた娯楽は自分だってこれまで十分享受してきたことを思い出すと、一般には明確に線が引かれていることになっている境界が崩れてしまうことの恐れがあるのかもしれない。この種の映画ジャンルを「反戦映画」というが、「反戦」と「平和」は同じだろうか?なぜ「平和映画」とは言わないのだろう?もし「反戦」の主張が「戦争」を前提としてしか成り立たないとするなら、「平和」の方が本当は否定概念で、論理によってのみ遡求されうる理想(絵空事)なのだろうか?反戦映画には暴力性や俗情のためのカタルシスに落ちてしまう危険とともに、概念的な不安定さがあり、この両者は表裏一体だと思う。「戦争」を題材として持ち出さざるを得ない以上、その扱いは細心を極める。鉄の玉がバネに弾かれる音、直後に続く皮膚と血管を引きちぎる音のセットは、どんな反ユダヤ主義者にも嫌悪感を催させなければならない。この難しい試みにこの映画が成功しているかどうかは分からなかった。小津安二郎のような映画の方が、「戦争」を「反平和」と定義し直す(つまり「平和」の方から出発する)という意味で本当は英雄的なんだということに気づけば尚更。
大阪は意外な肌寒さで花粉も酷い。ここから和歌山平野へ向かってゆっくりローカル線の旅。この三日間、毎日電話で笑い話をしてくれた人と、その登場人物たちとにあと少しで会える。