マリー・アントワネット

世間は明日も休みってことで(というか、もう近所の小学生たちは夏休みか)今夜は妻と見るためにTSUTAYAでDVDを借りてきた。フランス革命ものが見たいなと思って探してみたところ、映画化されているのはマリー・アントワネット絡みだけということになっていてちょっとがっかり。坂本龍馬関連の映画やドラマがあれだけ量産できるなら、サン・ジュストロベスピエール、ダントン、マラー(とこう並べると、どうしても大学時代に友人が書いた傑作マンガを思い出してしまうけどそれはさておき)と、これだけの役者が揃う時代が映画にとっておいしくないはずがないと思うのだけど、ちょっと考えてみると、戦争ものや、時代の激動を背景に生きる市井の人々の群像劇を除けば、純粋な政治映画というジャンル自体がこれまであまり撮られてこなかったことにも気づく。じゃあ坂本龍馬はどうなのかというと、基本的にこの国で坂本龍馬という存在は、土佐の砂浜に立って見果てぬ夢を追い続けるという、無垢な情熱のイコンそのものとして共有されてしまっているところがあって、したがって彼の遍歴を民衆の動向に重ねれば、希望を追って生きる人々の民衆劇にもなるし、彼を取り巻く人々に焦点を当てれば、情熱を陰で支える人々の人間ドラマにもなりえる、という具合に、何かと使いやすいキャラクターではあるのだが、反面、政治的には薩長会談を取り持ったこと以外ぶっちゃけ大したことをしていないので、彼を扱った映画が、リアルな政治映画として成立しているかというと、僕の知る限りそういうものは多くはないと思う。実際の歴史は、それが封建制からの市民と人間の解放という、単純な図式によって語られることもあるフランス革命のような事件であっても、無数の階層や地域の利害が鋭く対立しながら、それぞれの代表者を巻き込んでありとあらゆる陰謀や打算を伴いつつ、当事者の誰にも予測のつかなかったような仕方で進んでいくわけで、それを描き切るには映画という媒体はやや時間的に短すぎるのかもしれない(それでもバスチーユからナポレオンの即位までを10時間くらいで追ってくれる映画があれば、見てみたい気はするけれど)。そうは言っても、やはり大河ドラマからコメディーまで、これだけの変奏可能性をもつ龍馬という主題は異常というべきで、例えば理想主義者であり、民衆の力を革命の中に吸い上げたという点では龍馬と同じくするロベスピエールでも、最後に民衆派の領袖エベールを処刑せざるを得なかった辺りの事情を説得的に描くには、相当に精密な考証と繊細な内面の分析が必要とされてくるだろう。その意味でこの時代の主人公としてマリー・アントワネットが重宝されるのも、幼いうちに政略結婚で異国に渡り、絵に描いたような栄光と没落の軌跡を辿るという貴種流離譚の変種としての扱いやすさ故なのかもしれない。
書くことが定まらないままに書き出すと、つい前置きが長くなってしまう…
話を戻すと、TSUTAYAの棚に並んでいた大革命ものは、『マリー・アントワネットの首飾り』とソフィア・コッポラの『マリー・アントワネット』のみで、その中から大して期待せずに選んだコッポラのDVDが予想以上の出来で驚いた、という話だ。これはハリウッド伝統の歴史スペクタクルとして見ようとすると完全な期待外れに終わる作品だ。この映画にはラファイエットミラボーテュルゴーもネッケルも登場しないし、マリー・アントワネットが王妃として暗躍するヴァレンヌ逃亡も、兄レオポルトへの戦争の教唆も描かれない。それどころか、革命が複雑化すると同時に絶頂期に達する(当然マリー・アントワネットは首を撥ねられる)ジャコバン派の政権掌握の遥か遥か前の時点で、物語はあっさりと終わってしまうのだから、この映画に『ベルサイユのばら』のような悲劇的カタルシスを求めようとしても完全な肩すかしを食らうだけだろう。冒頭でマリー・アントワネットが浴槽につかりながらケーキを舐めるシーンに流れるこの曲(Natural's Not in it / Gang of Four)が、この映画の試みを象徴的に物語っている。つまりこの映画は、18世紀フランスの王侯階級の、現代のハイソサイエティーへの移し替えなのだ。マリー・アントワネットの放蕩三昧は、ウォール街の若い成金連中の乱痴気騒ぎそのままだし、夫ルイ16世との間の性の不調は、『Sex and the City』の取るに足らない若い女たちの悩みでしかない。僕たちは過去の事物を見るとき、どうしても博物館で閲覧者と陳列物を隔てるガラスのような、分厚い時間の壁を想定してしまいがちだから、本当はこのような移し替えは容易ではないはずなのだが、この映画では、見る者の情感をcomtemporaryなものにキープするために音楽が絶妙な働きを果たしている。全編にちりばめられたパンクでポップなサウンド・トラックの中で、クラシック音楽は退屈な宮廷儀式のシーンでしか使われない。ちょうど僕らの生活の中で、クラシック音楽が果たしている役割と同じように。こうして、マリー・アントワネットの伝記ものを見るのだと意気込んでいた僕らの意識から、次第に歴史の概念が取り払われていく。今も昔も、当事者たちにとっては(特に一般市民や女性たちにとっては)歴史など過去にしか存在しないものだと教えてくれるように。仮面舞踏会から朝帰りしたベルサイユ宮殿の上には、僕らが学生時代に見たのと同じ朝焼けが広がっているだろう。そして、大いなるヘマをやらかした後、夫とともにベルサイユを離れる馬車は、『キッズ・リターン』の自転車と同じように二人の心を優しく結ぶだろう。
ソフィア・コッポラの作品は他に知らないけど、凄い才能だと思うよ。彼女が観客の中に留めておこうとした現代の感覚も結局は時代とともに移ろうものだから、これは歴史に残るような作品にはならないのかもしれないけど、僕らの同時代人にしかできない仕事を、『ゴッドファーザー』のラストで暗い燭台の光の中で洗礼を受けていたあの女の子が残してくれたことに素直に拍手を送りたい。