楽しい春休みだった。かと言って、和歌山にいた四日間にこれといった事件も起こらなかった。ここ数年の帰省がいつもそうであるように、日中は息子や甥っ子と河辺の公園で遊び、夜はお母さんが作ってくれた魚尽くしの夕ご飯を、ビールとともにいただく。それで食べ終わってからは、一日の締めにみんなで車に乗って一時間強の銭湯。どこを回るわけでもなく、好きな人の家族がいる土地の空気と水を求めて行っているのだから、地元人と同じリズムの生活を送らせてもらえるだけでありがたい。特に今回は一回も名跡の類いに足を延ばさなかった。妻の家族に所縁のある寺やお城も、大方挨拶を済ませてしまって、いよいよこの土地が僕を受け入れてくれているということなのかもしれない。
息子が寝てからは、コーヒーを入れ、居間の石油ストーブで暖をとりながら、ソファーでひそひそと密談。「まだまとまっていないから」と、一日目は保留した話を、二日目の夜になって妻がしてくれた。匿名性を保つために僕なりに抽象化してみるとこんな風になる。人が人を「赦す」ための条件についての話。人が人を赦せないのは不幸だ、と良識ある人たちは言うけれど、「赦せない」ということはそれほど簡単に断罪されて良いことなのだろうか。そもそも「赦す」ということは本当に「良心」や「人としての器」だけにかかわる問題なのだろうか、と妻は言う。例えば、過去の自分の行為に対して、最低限の倫理的矜持を死守するために、敢えてある人を赦さない、ということがあり得るのではないか。その人を赦すことで、自分が過去に下した決断の正当性が崩れてしまうとしたら、そしてその決断が自分のためではなく、利他的な目的のもとになされたものだとしたら、「赦せない」という目下の結果は、むしろ「良心」と最低限の「倫理的誠実」を原因としていたと言えないだろうか。「赦せるなら赦すに越したことが無い」というのは良識派の言う通りなのだろう。何の犠牲も払わず、好いとこ取りで赦せるなら本人がどれだけ楽になるか分からない。でも情念が、これだけ捻じれて圧力が係っている構造が見えている以上、高座から「赦せ」と諭すことは情念の力学を無視した不思慮以外の何ものでもないだろう。必要なのは説教ではなく援助なのだ。正当性を巡る孤独な闘いへの共感、利他的な決断への感謝、状況全体への理解。それらがすべて揃って初めて、本人が、安心して緊張した手を緩めるための前提条件が整いうる。例によって、足りないのは「良心」の方ではなく、「感謝」の方なのかもしれない。
ここまでが春休みの前半の話。