今年も週に最低一本は映画を見たい、ということで一月に見た映画を思い出す限り。

「一人殺すのは殺人者で、百万人を殺すものは英雄なのか」という有名な台詞だけ見るといかにもヒューマニスティックで生温い感じだが、実作は辛みが効いていて強い感動がある。生温いといっても公開当時のアメリカ(戦後二年しか経っていない1947年)ではそのメッセージ性によって宗教団体や退役軍人の強い反発を招き、映画館での上映ボイコットや、メディアからの集中砲火に晒された問題作であった。しかしそういう背景知識を外して見ると、本作の主眼は気の利いた警句によって戦争を断罪する道徳的なポーズにあるのではなく、詰将棋の防御側の一手のようにやむなく繰り返される連続殺人のメカニズムが、そのまま戦争の不可避性の比喩となっているという構図にこそあることが見てとれて恐ろしい。フランスの裁判所で死刑を宣告された主人公は"I shall see you all very soon. Very soon."と言い残して断頭台に消える。その後戦勝国となり被告人として軍事法廷に立つことはないであろうフランスやアメリカに対し、あなた方はそれでも(<妥当性>ではなく)<事実>の法廷からは逃れることはできないのだと宣告しているかのようだ。

あのブームの中「あまちゃん」を見逃した引け目もあって(嘘)、初の宮藤官九郎作品。県外者にとって「歴史や社会に裏付けられているわけではない、一見、脆弱な共同体」(宇野常寛)としての郊外、木更津といえば、やはり何といっても東京湾アクアラインの終点としての位置づけ、いわば通過点としての評価にとどまるだろう。本作でも、だだっ広い岸壁から東京湾に向かって突き出る高速道路の巨大な高架が、エメラルドグリーンの海とのコントラストで何度も描かれている。自分のとっても、祖母が亡くなった老人ホームの、前のホーム(だか病院だか)へ車でお見舞いに行ったときの思い出や、90年代に友達と行ったドライブの記憶の断片に、あのコンクリート構造物の大味で素っ気ない印象がへばりついている。そこは移動者が旅の恥をかき捨てることのできる自由な空間であり、だからこそすでにサラリーマンと大学院生だった僕らも、車の中でこんな会話を交わすことができたのだった。
「ねぇねぇ、小室と安室ってヤってるのかなァ」
「絶対ヤってるでしょ。絶対ヤってる」
「なんで分かる?」
「オレが小室だったら絶対ヤってるもん」
「誰もそんなこと訊いてねェーよ」
歴史のない町、限りのある人生という空間設定の中で浮上するテーマ性(たとえ死者が蘇っても、生前にきちんと別れの挨拶をした者にはその姿が見えない)も泣ける。

南極に取り残されたタロとジロが厳冬の雪原でサバイバルする姿ももちろん良いのだが、並行して描かれる日本の夏の「守られてる感」「安全地帯感」がハンパなく、沁沁と印象に残る。高倉健は、樺太犬を提供してくれた農家たちに謝罪するため北海道行脚に出かけ、渡瀬恒彦は京都の大学に残りつつ犬たちを見捨てた己の業について葛藤するのだが、そんな心理ドラマとは関係なく、ブリザード吹きすさぶ南極に比べて、緑豊かな北海道、祇園祭の行われる京都はなんていい場所なんだろうと思ってしまう。全篇を通して南極の自然の厳しさをリアルに描写すればするほど、日本の平和が強調され、ヴァンゲリスのテーマ曲が流れるお茶の間の安全が有難くなる、という作りになっている。この時代の日本を守っていたのが平和憲法であれ、安い円であれ、牛肉・オレンジの関税であれ、このように安全な高みから世界を見下ろすような大作は、日本にはもう二度と撮れないということは間違いない。

元祖の『東京物語』でもそのリメイクでも、老夫婦が東京の長男宅を訪れたときの、孫のガキたちの舐めた態度がめちゃくちゃ腹立つのが玉に瑕と思って、よくよく考えてみたら、自分も昔家に親戚が来たときなどもっと失敬な態度をとっていたことを思い出した。しかも映画のガキは高々小学生だが、自分などは高校生の頃の話だ。大人からすれば見え透い一人相撲をとって、それがどれほどイタイことなのかも気づかないんだから、若さというものは残酷である。