禁煙を始めて二日目に『風立ちぬ』を見に行くのは試練だった。作中で描かれる喫煙シーンに圧力団体から苦言が呈され、それに対して、時代状況の正確な描写に過ぎないという反発が起こるという騒動があり、見る前は僕も概ね後者と同じ意見だったが、見終わってみると、あれはやはりタバコへの賛歌であったと思う。タバコを愛していない人間に、あれほど美味しそうに煙を燻らせるシーンは描けない。
タバコに限らず、この映画は飛行機、戦闘、美少女と、宮崎駿監督の偏愛するモノたちのシーンで埋め尽くされている。自然からエネルギーを吸いこんでまるで生き物のように鼓動する内燃機関、その動力で滑空する航路の曲線、紙飛行機を飛ばし合って少女と心を通わすシーン。監督自身が若い頃から老年に至るまでずっと心を奪われてきたのであろうモノを、ここまで開けっぴろげに、ストーリーの整合性を犠牲にしてまで生き生きと描かれると、観る方もある種涼味を感じざるを得ない。僕だって、十代の頃に覚えたタバコやバイクやサイエンスにどれだけその後の人生を規定されてきたか分からない。愛する女性との交流が、どれほど心を満たし、人を前に向かせてくれるものであるかも身をもって体験している。それでも人の親となり三十代も後半になって、好きなモノたちに囲まれるこの完全ではあっても小さな部屋から一歩外へ踏み出したいという気持ちも抱えながら手探りで日々を送っている。人間の価値の受容体が十代に大方完成してしまうとして、人は原体験を超える価値を享受することができるのだろうか。そう自問するであろう多くの観客に対する主人公堀越二郎の答えはこうだ、自分はただ美しいものを作ってきただけだと。
この開き直りが『風立ちぬ』という映画を、爽快にも底の浅いものにもしているようにも思う。「美しいからやっているんだ」という論理は、美とは対象の主観的な属性であり、人は心の底から欲するものを美しいと言うのだ、という真理を忘れると、「やりたいからやっているんだ」という浅はかなトートロジーに陥る危険性を孕んでいる。製作者側もそんなことは分かっているから、この映画の骨格をただの耽美主義に回収しようとはしていない。原作者でもある監督は、他に二つの道具立てを用意して、主人公の耽美的情熱を下支えしようとしている。一つは美少女からの個人的な承認、一つは少年時代の夢の純粋さ。
しかし困ったことにこのどちらもが耽美主義と同様にあやふやなのだ。主人公の設計した飛行機は、若い兵隊を乗せた特攻機となるという悲劇的な結末を迎え、主人公は相応に苦悶するのであるが、亡くなった少女(実際には夫人だが)からの「生きて」という言葉によって、苦悶は(少なくとも映画の中では)夢のように解消してしまう。自分を愛してくれた人間の命に対して向けられた少女の言葉が、その人間が(意図せずとも)引き起こした甚大な結果も含めた所業そのものへの肯定の言葉として機能しているように聞こえる演出は、悪い意味で映画的な誇大妄想というしかない。素朴な動機をもつ科学技術がもたらす悲劇的な結末、という矛盾は、携わった者に罪はなかったということで良しとされるほど簡単な問題なのか。
少年時代の夢の延長のように描かれるその動機の素朴さに関しても、美しげなヴェールがかけられている。のどかな田園地帯で、優しいお母さんとかわいい妹に囲まれ、自慢の息子、良き兄としての役割をこなす誰もがうらやむ少年時代。そんな穏やかで波一つない心象風景から、脇目も振らずに美に専心する異形の才能が育つとは、僕にはちょっと考えづらい。自分を美の中に閉じ込めた魔物を人目に触れさせずにおきたいという、監督自身の衒いや強がりがあるのではないか。
そう、この映画は、航空機技術者堀越二郎の物語ではなくて、本当はアニメ作家宮崎駿の創作的回顧録なのだと考えれば、作品から受ける倫理的な違和感は半減する。長く偉大なキャリアの中で、彼は結果的にでも人を殺したり傷つけたりした訳ではなかった。「創造的人生の持ち時間」の10年間の中で、『ナウシカ』や『ラピュタ』といった掛け値なしの名作を残し、その後は過大な期待の中で、思想的に誤解されたり、新境地へのチャレンジに賛否が沸いたりもしたけど、自分は美しいものを目指して作ってきただけですよ、愛する人たちにも理解され、少年時代の自分にも何とか顔向けできる満足のいく人生でした、と72才の老芸術家が回顧しているのだとしたら、異を唱える者はなく、これまで楽しませて貰ったファンの多くも喝采を惜しまないだろう。
大阪万博原子力に憧れた少年が原発技術者になり、福島の悲劇で葛藤し、この映画を見て「これで良かったんだ」と溜飲を下げるなどという冗談は考えてみたくもないけど、国民的作家として三十年間作品を生み出し続けた偉大な芸術家の白鳥の歌としては見応えのある作品だったように思う。繰り返しになるが、「創造的人生の持ち時間」の10年間の中で彼が生み出したのは『ナウシカ』であり『ラピュタ』だった。感謝を込めて喝采を送った後は、『風立ちぬ』のことは忘れよう。ここにあるのは、過去を包み込む老年の優しさ。来るべき時代を僕らが生きるための知恵はここにはない。