子が不可逆の成長を遂げる日々は不意に訪れた。初めて寝返りを打ったときよりも、立ち上がって最初の数歩を踏み出したときよりも、親として複雑で深い感慨に襲われる日が来るとは思っていなかった。
登園前日の夜は、母ちゃんの腕の中で「ようちえん、行かない」と100回も訴えながら眠りに落ちた。その時点で彼の不安は母親と離れて先生やお友達と過ごす未知の体験そのものにあったと思われた。翌朝、お前は母ちゃんと離れてジイジやバアバと楽しく過ごせたことがあるんだよ、という話をすると、真剣に耳を傾けて、朝ごはんを口に運びながら前向きな心構えを打ち立てようとする。それでもバスに乗せられる時は涙涙。三時間後にバスで帰宅。知り合いの年長のお姉ちゃんが隣りの席に座っていてくれたそうだ。先生によると、行きのバスでも妻の顔が見えなくなるとすぐに泣きやんだとのこと。帰ってきた息子の所作には達成感が漲っていた。「男らしかったでしょ?」と誇らしげで、登園の証として出席ノートに貼られたかわいいシールを見せてくれる。
もうこれで大丈夫なのかと思っていたら、夕方頃から前日より切実に「ようちえん、行かない」と訴え始めた。母ちゃんのいない場所で過ごした時間から得た彼の自信は本物だったとしても、それが、明日からもずっと同じタイムテーブルの日常が続いていくという認識とは繋がっていなかったのかも知れない。パスを降りるときに先生から言われた「明日も待ってるね」という言葉に衝撃を受けた様子を妻は目撃していた。その日も「ようちえん、行かない」と100回訴えながら眠りについたが、妻が幼稚園に行く理由について丁寧に話をすると、意味を噛みしめるように黙って聞き入っていたそうだ。父ちゃんもバアバと一緒に住んでいないでしょ。母ちゃんもバアちゃんとは一緒に住んでいない。○君も大きくになったら母ちゃんとは離れて楽しく暮らすんだ。幼稚園も、学校も、そのための練習なんだ…。
そして二回目の登園を終えた日の夜は、彼の口から一回も「ようちえん、行かない」は出なかった。寝床で母ちゃんに抱かれて、昨日と同じ雰囲気になっても、代わりに「何も言わないよ」と言って気持ちを自分の中にしまい込んでいた。今まで、これだけ真剣に親に何かを訴えたことも、願いが聞き入れられなかったこともなかったのに、今回は叶えられなかった。そのことによって、親に対する諦めのようなものが生じたのかもしれないと妻は言った。望みのない懇願をしないという意地、己の領分は自分で取り仕切るというプライド。この話を聞いたとき、僕の中に、小さな小屋の映像が浮かんだ。鬱蒼とした森の中に立つ鄙びた一軒の小屋。それまでずっと風の通り道だった森には、雨風をしのげる場所がどこにもなかった。雨が降ると木の根まで濡れ、風が吹くと森全体が音を立ててゆれて、自然からの外乱に身を委ねるしかなかった。鳥たちが集まり、恵みの雨が注ぐ豊かな森であったが、そこには囲いがなく森は自然の一部だった。小屋には扉が一つついていた。小屋を建てた者だけが開けることができる扉は、開け放って風や鳥を入れることも、閉め切って扉に背を向けることも宿主(やどぬし)が自由にすることができた。一人になりたいとき、宿主は扉を閉めて机に向かって日記を書いた。その日起こったこと、秘かな思念、自分しか知らない喜びについて。書きためられた日記帳は本棚に並べられ、壁に掛かった時計は、小屋の中の時間を刻んでいた。