昨日は友達と平日のお気楽な散歩に出かけた。江ノ電の長谷で降りて、長谷寺を訪れた後(去年訪れた奈良の長谷寺に比べると、伽藍の規模と美しさ、境内から望む周囲の眺めで及ばない気がしたが、弁天窟と呼ばれる天井の低い洞窟は地下水と湿気が内壁と仏像の凡てを濡らしていてなかなか神秘的だった)、稲村ケ崎まで散策。再び江ノ電に乗って江ノ島駅周辺でラーメンとビールを食すと、今度は江ノ島に渡って島の頂上で再び酒を飲んだ。とても楽しかったのだが、帰りに立ち寄った居酒屋で友達に執拗に絡まれてひどく消耗してしまう。相手が怒っているときでも、怒りというのは怒っている人自身の問題である、という都合のよいスタンスを保つようにしているが、それでもどんな理由であれ否定的な言葉を連続して浴びせられるのはなかなか堪えるものだ。一晩明けた今日も、せっかく途中まで楽しかったのに、と思うとまた落ち込んできて、ギリシャ語の数の数え方などを覚えたりしながら気を紛らわせようとしていたのだがなかなか晴れず、ふと思い立ってさっきまで2時間の間ピアノを弾きまくっていたら、ようやく穏やかな優しい気持ちに戻ることができた。中学の時から一番好きだった尾崎豊の『ドーナツ・ショップ』。考えてみると最近の自分は、たとえ友達のある言動が気に障ったとしても、笑いで済ませられる場合や、重大と思われる場合を除けばそれをいちいち指摘することはあまりなくなっている。それは一つには、ここまで長い間気の合う連れとして続いてきた仲なのだから、気に障ることがあってももはや些細なことであることが殆どである、という理由。もう一つは、言動の背後にある当人の潜在意識は、こちらからは到底見通せないぎりぎりの仕方でバランスしつつ、派生的にその言動を生んだに過ぎない訳で、そういった背景への配慮なく指摘したとしても、結果的には無駄に相手を傷つけるだけに終わってしまうだろうという理由。改善を指南するなら、潜在意識の書き換えも含めたトータルな視点から行うのでなければ無責任だろうし、ならば気の障る行動も、僕にとっては美質と映る行動も含めて彼・彼女の個性として愛してしまおうという考え方で、自分なりにはあれこれと思案した末の選択なのだが、それはそれで冷たく感じる人間もいる、ということだから難しいものだ。
ところで『TSUNAMI』のBメロのメロディーラインは完璧だ。Aメロ後半と同じ上昇カーブを描きながら、『人は誰も♪』の『だ』からマイナー調に移行して、そこからはAメロで馴染んだ上昇・下降が、長音階から短音階への対応を正確に守りながら進行する。そしてBメロ前半最後の音(『運命(さだめ)♪』の『め』)が再び半音上がってメジャー調に戻り、サビを誘う高揚を一気に歌い上げる。Bメロ前半を構成する音が一つでも、半音でもずれていたら、これほど継ぎ目の無い、自然なサビの導入に成功することはなかっただろう。不自然でないという意味で極めて自然だが、発想自体は決して自然ではなく力技の跡が見える。芸術的完成度を強く感じさせる名曲だと思う。