望月新一教授が公開講座用に書いたテキストを読んでみたのだけど、
要するに、
・数体Fのガロア群Gal(K/F)の元は、K→Kの写像で、Fに作用させると恒等写像になる。ガロア群Gal(K/F)の逆極限である絶対ガロア群G_Fは、数体Fを完全に決定する。
・位相曲面Sの被覆変換群Aut(T/S)の元は、T→Tの写像で、S(開近傍Uのコピー)に作用させると推移的になる。被覆変換群Aut(T/S)の逆極限である副有限基本群π(S)は、位相曲面Sのある種の構造を決定する。
という意味で、数体Fのガロア群Gal(K/F)と位相曲面Sの被覆変換群Aut(T/S)はよく似ており、またこの類似性は数体と位相曲面の理論が個別に発展した結果見つかったものだが、数体F上で定義された代数曲線Xを考えると、G_F→Out(π(X))という写像によって、両者の間に明示的な関わりが浮かび上がってくる、という理解でいいのかな?
読後に僕が思ったのは、ここで紹介されている理論は、一体いつから知られているのだろうということだった。ガロア理論以外は、学生時代に物理に付随する数学をそこそこ勉強してきた僕にもほとんどが初耳だった。1940年代のビッグバンであれ、2000年代のダークエネルギーヒッグス粒子であれ、物理学の理論が、そのアウトラインやイメージを切り口に一般に浸透している程度を思うと、数学の理論自体が人口に膾炙している程度は甚だ心もとない。一般向けの数学というと、どうしても頭の機転を競う初等的な問題が取り上げられがちということになる。このテキストは「数学入門」と題するにはかなり敷居の高いものだとは思うけど、証明はすべて略されていて、理論そのものの紹介に徹しているという点でとても貴重な試みだと思う。こういうテキストがもっともっと人目に触れるようになればいいなと。
そうはいっても、数学が真新しいアイデアの創造を旨とするのに対して、物理にはアイデアを現実にperformする対象が自然界に存在する、という意味で、紹介のし易さに差が出てくるのは仕方ない面もある。物理学はその発展過程で、さまざまな数学理論に格好の例題を提供し続けてきた。微分方程式の解はどうふるまうかと問われれば、とりあえず質点の運動を示せば良いし、ヒルベルト空間とは何かと問われれば、とりあえず量子力学系の状態ベクトルが張る空間をイメージすれば良いという具合に。ブール代数のように主に工学的な方面に応用例を見出した分野もある。そこで、論理的に整合したnon-trivialな数学の理論はどれもが最終的に現実界に何らかのperformerを見いだせるのか、という命題への興味が自然に湧くことになる。さて、この命題が成り立つとどのようなことになるだろう。カントのコペルニクス的転回が、古来、自然界の存在の形式と見なされていた種々の概念を、人間の認識の形式として読みかえる革命だったとすると、その反革命、つまり人間の認識の形式を、自然界の存在の形式として求めていくという極論もまたあり得るということになる。そして一端、存在→認識→存在という循環が出来上がると、認識が存在の反映なのか、存在が認識による創出なのかの区別はつかなくなる。人間は自然をどこまで知りうるのか、という問いが、自然は人間の知性をどこまで包摂しうるか、というある種傲慢な問いと入れ替わってしまう。それでも、これはある意味とても魅力的な視点とはいえる。これまで人間による探求や制御をはね付け、拒絶する度合いとして考えられていた自然の奥深さを、人間の知性を包摂する器量として捉えなおすことができるのだから。科学史が自然のあり方に知性が追い付く過程であり、数学史が自然を創出するプログラムを知性がcodeしていく過程とする見方が可能なら、沼地を這うような人類の歩みに対して、何か手に手を取り合うような希望を見いだせる気がする。