友達と飲む。新婚旅行に行ったパリ(ポンピドゥー・センター)の話。百年戦争時の英仏王侯の血統に知悉した博覧な旅行ガイドの話。夏から島崎藤村を読んでいて、もうすぐ小説(『家』、『破戒』、『夜明け前』とか?)が全部読み終わると言っていた。彼に会うと、10年来変わらずに「今や廃れている」文学を追究している姿があり、ある意味失望させられることがない。学生時代に大江健三郎を読んだことがない人間が過半を占める社会が、実は普通の社会だということに気づき、もはやそれに慣れてしまって居心地すら良くなってきてはいても、誰それの本が凄いと、子どもじみた文芸談義に花を咲かせるのはやはり楽しかったりもする。
本読みは「文体が良い」、「文章が巧い」とすぐに文章論に行きたがるけど、文章が巧いだけの作品を、暇でもない人間の誰が読もうとするだろう。映画好きがすぐに言いたがる「映像が良い」云々も同様。普通に考えてテレビで見る映画の映像よりは、生で見る夕焼けのほうが綺麗だ。この手の評価は、暗黙の作法を共有する閉じたサークルの中で、対象を一辺倒に礼賛するための決まり文句であって、文体や映像への特段の意識をもたない人間には何も訴えることはない。ディケンズ夏目漱石も、作家はそういう普通の人々にも喜ばれる本を書いてきたのだし、小津安二郎の平明な映画も、「映像が良い」と評される懐の深さを持ちながら、次の作品への渇望を確実に一般人の中に刻み込んできた。芸術を特段に意識するしないに関わらず、時代の蠢動を明敏に反射し予告する作品にこそ人々は反応していくだろう。島崎藤村がもし万一、今後脚光を浴びることがあるとするなら、そこには文体論を離れたところの、必然性の機縁があるはずだ。友達には、それをあわよくば掴み取るところまで作品への愛を深めてほしいと思った。
平野啓一郎が「今の学生はフローベール森鴎外も読んでいない」と一時期嘆いていたことがあった。当たり前だが、21世紀は学生が『ボヴァリー夫人』を片手にキャンパスを歩く時代にはならなかった。京大の文学部でも法学部でもこんな本レイザーラモンHGやこんな本100億稼ぐ仕事術 (ソフトバンク文庫)のほうが売れているだろう。結局そんな煽動に引っかかったのは一部の燻った文芸マニアだけだったのである。