しばらく前に登録だけしておいて放置しておいたFacebookに、今週になって急に友達リクエストが届き始めた。主に高校時代の同級生から。誰かが見つけて僕と友達になると、それが他の友達にも伝わる、という形で広がっていく仕組みになっているのだろう。そのうち何人かとはメッセージのやりとりもした。実際に生の言葉を投げてきてくれるとやっぱり嬉しいものだ。
Facebookにはウォールと呼ばれるスペースがあって、そこに逐一、友達の誰が誰と友達になったという情報やら、Twitterと連動させているユーザーからのつぶやきやらが表示されてくるのだが、こういう情報に対する心理的処理の仕方がいまだに分からずちょっと戸惑っている。僕自身を宛名にした情報は、他の誰にも見られないメッセージという形で僕だけに届けられるし、僕自身が見たいと欲する友達の近況などの情報はプロフィール欄等にすでに書き込まれているので、ウォールに表示される情報は、僕に宛てられたものではなく、僕が進んで見たいと思っているものでもないのに一方的に押し込まれてくる情報、ということになる。ならばそんな情報は放っておけば良いではないのか、というとそういう訳にもいかない。これは僕に限らないと思うのだが、立ち話を聞きかじってしまったようなもので、率直に言って一度気になりだすと気になって仕方ないのだ。ある友達が別の相手と友達になったとすると、その相手と、自分との間の共通の友人とその数が表示される。共通の友人の数が複数である場合は、たいていその相手は僕の知っている人物である。すると、自分とその相手が友達でないのは不自然ではないのか、という微妙な意識が湧いてくる。また、友達が友達をどんどん増やしていると、これまでの人生で友達の数なんて数えたこともないのに、自分は友達の数が少ないのではないか、というようなことも考えて軽く不安な気持ちにもなる。中でも特に心的処理に困るのが、友達が発するつぶやきだ。人にもよるが、つぶやく人は一日に何回もつぶやいている。移動時間や帰宅時にケータイから投稿されることが多いためか、独り言のようなつぶやきには、バスに乗り遅れたなう、ラーメンが食べたいなう、眠いなう、等の感情や欲望を率直に表した内容が多い。友達が眠いとつぶやいている時、人はどう反応すればいいのだろうか。自分に対して直に投げかけられた会話なら、「ああ、最近仕事忙しそうだもんね」とか「オレも今日は眠くて大変だったよ」という返答を返すこともできるけど、FacebookTwitterでは相手の仕事の様子も分からないし、自分に向かって発しているわけでもないのだろうから、いちいち拾うのも厚かましい気がしてしまう。それでもつぶやきの作法を覚えた人同士は、軽快につぶやきの応酬を楽しんでいるようだ。そんな様子を見ると、これも軽くだが何か自分が乗り遅れているような寂しさを感じてしまう。だったらやはり気にしなければ良いだけなのだが、一度インプットされた「そうか、あいつは今日眠いのか」という感慨を簡単に消し去ることはできないわけで、そのやり過ごし方がどうも上手く身についてこないのだ。Twitterには140字という文字制限があるので、短歌や俳句ではないけど、「なう」や「だん」等の常套句の使用以外にも独特の文体が出来上がっているようだ。特にリツイートされることの多い主張系のつぶやきには断定や体言止めが多い。これも字数が足りないのが原因だが、両論を咀嚼したうえで一方を主張するという形が取れないのでどうしても独善色の強い断定になってしまっている。日本人が普段の会話でこれだけ強い調子で断定することは稀なので、政治系のリツイートが続くとまるでセクトのアジトに監禁されて、考える暇もなく洗脳メッセージを聞かされているような錯覚を覚える。
何かFacebookTwitter批判のような文章になってしまったが、これは僕自身がその真価をまだ理解していないのもその一因だろうし、何より僕自身に焦りや寂しさがあるが故の感想だと思う。心の機微を隠して一定のフォーマットで発せられるつぶやきから想起される安定した日常への憧れ。人間関係に齟齬や行き違いなど初めからないかのように軽快に交わされるコミュニケーションへの羨望。それらが幻想かもしれないと心の中では分かっていても、PCの電源を切ってモニターから目を離し、自分の部屋に漂う時間に戻って来るまでは、仮想現実から離陸するのはなかなか難しい。仮想と現実という二つの世界の往復を自在にこなす意識の切り替えこそがこのツールを使いこなす上で求められるリテラシーなのかもしれない。