科学でたまにtrivial(バカバカしい、自明)という言葉を使うが、これは、もう大方分かりきってることに対して、新たな事例を添えて証明しなおそうとするようなことを言う。例えば、渡り鳥全般の基本的な生態に関して重要な発見は既になされていて、学会でのコンセンサスもすでにできあがっているのに、ある学者がなんかマイナーな種類の渡り鳥を取り上げて、年次の行き来を調べなおしたりして、やっぱりあの渡り鳥も繁殖地と越冬地をもっていました、という論文を書いたなら、そういう論文をtrivialという。要は「ありきたり」であり、意外性のかけらもない見識のことだ。
この言葉をパソコンに当てはめてみると、少なくとも今居る会社でやられてる仕事はほとんどがtrivialだ。計算可能性の臨界に迫るアルゴリズムを研究している人間は皆無であり、皆が、理論的には出来ると分かりきっていることをやっている。構造化定理が教えていることをぶっちゃけて言えば、if文とfor(while)文を覚えてしまえば、誰でも普通のプログラムは書ける、ということだ。時間さえかければ誰でもできる仕事。だから、システム間のインターフェースの知識をたくさん持っている人が(調べる時間を省ける分だけ)、見かけ上有利になる。一杯知ってるほど偉い。どの世界にも凄い知識をもったマニア的な人間がいるのだろうけど、知識だけでおおっぴらに偉そうにできるのが鉄道と歴史とパソコンの世界の特徴だ。他では差がつかないから。
(その点やっばり競馬は公正だと思う。知識なんかつけたって絶対当たらないし、当たらない人の言うことなんて誰も聞かないし)
歴史とか漢字とかで点を稼いでる奴はがり勉みたいでかっこ悪いもんだった。経済の歯車を回すために(近視的にはただ自分が食うために)に、プライドだけは高いそんながり勉たちが、作らなくても良いシステムを日夜延々と、構築しているわけなのである。
前に、今みたいな気持ちで仕事をしてたら入社前の自分が失望するだろう、と書いたけど、それも本当かな、って気になってる。30才でこんなことを続けている自分を見て、例えば中学に入ったばかりの自分は絶望しないだろうか、と。
入りたての頃は、3年間ヒキコモってたような自分でもやっていけるだろうかという緊張感がいい意味で働いて、やる気の源になっていたところがあったと思う。それが、仕事を2年以上続けてきて、この世界でも十分やっていけるどころか、この世界で耐えなければならない最大の敵が、バカバカしさ・ツマラナサであることが身に沁みて分かってきたとき、逆説的に会社というところが、全く耐え難い場所になってきたような気がするのである。
一刻でも早く脱出することが先決だ。会社なんかに身を売らなくても、人生を軽蔑することなく、一生懸命生きていくことはいくらでもできるはずだから…。