多様体と速度

理論とか学説とかを勉強するときには、それが現実から乖離していく地点に注目するのが面白い。
およそ今の今まで本の形で残されているような考え方なら、現実のある面に対しては立派に符合して説明してくれるものにちがいない。だとすれば、古典を漁り万学に通じることによって、私たちはそれだけ現実との接点を増していけるのだろうか。
思うに、そうやって古今東西の考え方を逐一学びとって、現実のあの面に対してはあれ、この面に対してはこれ、と、都合よく貼り付けていく方式は、結局のところ、いかつい継ぎはぎの衣装を被せた「観念の化け物」を生むだけだろう。そういう機会主義的な観点からは、個々の理論がもつリミットは見えてこないし、そもそもそうやって現実を優しく包括的に捕まえて曲がりなりにも統一的な現実観・世界観をもつだけだったら、わざわざ理論や学説の力を借りなくても、「世故」で事足りるのである。
万学に通じていようとする偏執的な努力から自分を解き放って、まずは自分の愛好する一つの理論が、現実から離陸していく瞬間に目を凝らしてみよう。それが飛び立つ時の速度(=スピード×方向)の残像を目に焼き付けること。私たちには現実という多様体の全貌は見えていないのであり、だとすれば面白いのは、飛び立った理論の軌跡が、視線の遥か彼方で現実と再び出会う姿を想像することではないだろうか。十分な速度で飛び出した理論は、私たちが見えなかったところで再び現実と接触し、火花を散らしてその片鱗を見せてくれるだろう。理論の<強さ>は、現実からのこの飛翔力に懸かっているのである。