春にこのキャンプ場で、一家だけでの初めてのキャンプをしたとき、河の畔で遊ぶ子どもたちを見て息子が言ったそうだ。
「あ~ぁ、オレにも兄弟がいればなぁ」
それを聞いて、なぜかもっと一杯、焚火の扱いをさせてあげようと思った。状況は今更変えられないけれど、せめて、兄弟の平等を慮ってふつうは禁じられるようなことをやらせてあげたいと思った。体に火が着いたら川に飛び込めばいい、とでも言い添えれば、危ないということも分かってくれるだろう。
林間学校で習ったという薪の組み方はあまりに不格好だったけれど、一旦勢いのついた火は、薪も木炭も新聞紙も呑み込んで燃え上がる。炎が木を包むように覆い、しばらくして木が自身の内部から燃え始めるのを見届けると、新たな薪が運ばれる。ときには河原に落ちていた枝や雑草がこの儀式に加わる。
「この年で、これだけ火を眺めていられるのは大したもんだ」。去年の秋、初めて連れてきてもらったキャンプで、焚火の火を守っていた僕の友人がそんなことを言っていた。不思議な言い方だと思ったけど、火の扱いに長けた友人が、息子を、火を愛する同じ星の住人のように感じてくれていると思うとうれしかった。そういえば、僕が困窮して電話をかけたときにも、彼の傍らには薪のはじける音が鳴っていたっけ。
火を囲む人間の気持ちを悟って、隣の人に伝えてくれる、焚火の火のやさしさ。
じっさい、僕らはそのやさしさを借りてこんな会話をしたのだ。
「Mはもう、家族でのキャンプは厳しいから、自分用のソロテントを買おうと思ってるんだって」
「どうして?」
「K君、もう中学生じゃん。もうお父さんやお母さんより、友達と出かける方が楽しくなってきたんじゃないかな」
息子も知る友人の息子の例を引きながら、普段は言えないような説教風の教訓を込めたくなってしまったのかもしれない。お前も大きくなったらこの家から巣立っていかなければいけないよ。
けれども言いたいのはそんなことではなかった。なぜなら、この日一日、川のほとりに流れた時間はもっと根本的に充足したものであったから。夏の星座の空の下、焚火の火の光は、人の心をもっと透明にしてくれていたはずだから。
この後、妻とともにテントに入った息子は疲労を装ったお道化た口調で、親にとって決定的なことを言うだろう。
「育ててくれて、ありがとう」
「生んでくれて、ありがとう」
「結婚してくれて、ありがとう」
夕刻から夜半まで、あれだけ長い時間燃え盛っていた火が与えてくれたものを、僕は取り逃がしたのだろうか。火は金網の下に落ち、煙も上げず静かに、生命そのもののような光を放っている。残り少なくなった薪をそこにくべながら僕は願う。もう一度燃え上がって、言葉の代わりにこの想いを伝えておくれ!