みんなそろって2時に目が覚めた。寝たのは夕方の4時頃だから、旅の疲れを癒すには十分な睡眠。昨日のうちに、心配だった携帯の電波がつながることも確かめ、友人とも連絡がとれていたから(「ようこそアメリカへ!」というメールはてっきりLexingtonからと思っていたら、彼はそのとき出張でPittsburghにいて、Detroit経由で自社に帰るところだった)、疲れも懸念も解消して身体には力が漲っている。初めて、これから2週間外国で過ごすことに対して前向きになる。それでも今日の目的地、Willis Towerが開くのは9時。どうやって時間をつぶそうか。カーテンを捲って見下ろすと、凍りついた路上に客を待つタクシー。目の前には人のいない、室内灯だけが灯ったIBMビル。「そろそろ行こっか」のプレッシャーに耐えながら、日の出とともに移ろうビル街の陰影を示して注意を逸らす。この街の鼓動は、動き始めた道路の交通や、摩天楼の屋上からもくもくと吹き出す蒸気に現れているけど、旅行者の視線に親しく迫ってはこない。人々は何処へ向かい、何をして生きているのか。
外は昨日と変わらぬ寒気。ただ天気は滅法良い。State/LakeからPink Lineに乗ってQuincyへ。10時まで待ってWillis TowerのSkydeckまで上ると、ここからの眺めを目に収めてからこの日をスタートするのだという、朝一番の会場を待ちわびていた人々の意気込みで空気も光も澄んでいる。東海岸から来たのだろうか、アーミッシュと思われる衣装を着た家族がいて、またインド系の一族は、ガラス張りの床でヨガのポーズをとって写真を撮らせている。それを真似て正座に三つ指で息子とふざけ合う妻を前景に、僕もたくさん写真を撮った。対岸が見通せず海のようでいて波のないミシガン湖のエメラルドグリーン、その畔にあるJohn Hancock Center、シカゴ商品取引所、そして地球の丸みの奥まで続くイリノイ州の大平原。この20世紀的眺望に、館内に流れるクラシックでもジャズでもないアメリカンポップスが、ピッタリと嵌っている。
中華系のファーストフード店で、トレーを返す場所を教えてくれたアジア系の若者。
昼食後はシカゴ美術館へ絵を見に行く、というと「やだー」という息子の反応。いや、分かるんだよ、僕だって十代も後半にならないとそんなもの全く興味なかったんだから。でも、ギリシャ旅行以来6年間まともに美術館に行ったことがないのに、「いいの?」と遠慮している妻を見ていたら、こっちが申し訳なくなってしまって、僕は自分の役割を決めた。息子と二人で「つまんな〜い」と言いながら館内を周って、なるべく妻のための時間を稼ぐこと。「この部屋ではどの絵が一番つまんなかった?」、「ルーヴル美術館に行ったとき、ジイジはもっとつまんなかったから、もっと速く歩いてたよ」。隙を見て、Hopperの"Nighthawks"だけはしっかりと目に焼き付ける。けれども、息子が最後の方に言っていた「絵を見るより、絵を描く方が楽しいんだよ」という意見は、きっとアートへの向き合い方としては、取り澄ました鑑賞なんかより本当はずっと正しいのだと思った。一糸纏わぬ裸のギリシャ男をリアルに彫って何が面白い?見たこともない「妖怪を粘土で作る」ほうがきっとスゴいことなんだ。そんな彼に、売店でお絵かき帳を買ってあげる。
夜は、徒歩で北上して、英会話の先生にmust eatと勧められていたDeep-dish pizzaのお店へ行った。店員とのやり取り(注文、サイズ、チップ等々)に慣れていないから、とてもリラックスして楽しめたとは言えないけど、若者が久しぶりの再会を祝って巨大なジョッキのビールを飲んでいたり、カップルが金曜日のデートを楽しんでいたりする店内の賑わいが、僕らの緊張を少しずつかき消してくれて、うちらなりに舌鼓を打つ。そういえば、僕らが寒さに凍えるだけだったMagnificent Mileの路上でも、トールサイズのカフェラテを持ちながら、和気藹々と店を探す人々の顔には、週末の訪れを喜ぶ普遍的な表情があった。この街で生まれ、学校へ通い、仕事をして、恋におち、友と再会する。街への親しみを感じさせてくれるのは、そんな人々への暮らしへの想像だったりもする。