30年ぶりにアメリカへ旅立つ前の夜、ベランダのコンクリートに舞い降りた白地に黒の文様の羽根をもった蝶は、翌朝、場所をわずかに移動して、寒さの中で倒れていた。スーツケースをもってエレベーターを降りると、玄関の前に親父が待機していて、駅まで荷物の運びなどを手伝ってくれる。
九十九里浜の見事な弧を眼下に眺めると、そこに灯っていた日本の最後の秋の気配も見納め。機上の時間は11時間もあったのに、見た映画は『ゴッドファーザー』一本だけだった。あとは機内食を食べたり、うたた寝をしたり、到着地シカゴの交通を調べたり。妻はと言えば相変わらずのあらすじマニアぶりを発揮して、僕の『ゴッドファーザー』と息子の3Dドラえもん、自分の『リトル・ミス・サンシャイン』と、前の両隣の席の『猿の惑星』と『ミセスダウト』を同時に追っている。機内食の朝食に出た吉野家の牛丼のパッケージにあった「エア吉野家」という商品名に、「『エア吉野家』って『ニセ吉野家』みたいやんなぁ。『エア吉野家』はないわ」、「でもさっきから『エア吉野家』って言いたなってるやん。その時点で吉野家の勝ちやで」などと上機嫌な会話をしているうちに、フライトナビゲーターにはアメリカの地名が表示されるようになる。Williston, Bismarckといった知らない町、ミズーリ川。もうアメリカの上にいるんだ。
シカゴ、オヘア空港。ターミナルを移動する無人電車で、ハーフの赤ちゃんを連れた若い日本人のお母さんと乗り合わせる。ここからオハイオ州コロンバスまで乗り継ぎ、さらに車で3時間の町まで、夫に会いに行くのだという。ダウンタウン行きのCTA Blue Lineの駅は照明も暗く、人気も少ない。なかなか発車しない車両でやきもきしていた僕らに、駅員に掛け合って次に発車する車両を教えてくれた黒人女性。ニュースアンカーでも英会話教師でもないアメリカ人との会話は、彼らの喋り出しが早くあまりに滑らかだから、糸口をつかみづらくて緊張する。それに加えて、26文字だけで表示されるすべてのサイン。9才でアメリカに行って以来、これまで多かれ少なかれずっと触れてきた言葉なのに、もう疲れてる。
宿泊先として予約したTrump International Hotel and Towerは高さ415mのシカゴ第二のビルだから、最寄りの駅でおりればすぐに着けるだろうと思っていた。ところが、地下のClark/Lakeから地上に出ると、周りの高層ビルに遮られて近くにあるはずのホテルが見えない。地図で方向を確かめようとするも、氷点下をあっさり割る痛みを伴う寒さで地図を素手で持っていられない。それで日光の向きから東西南北を読んで、当たりをつけていこうと動き出したら、なんとまったく逆方向の区画に出てしまった。南からの日の光だと思っていたのは、ビルに反射した北からの光だったのだ。飛行機でも興奮してほとんど寝ず、もうくたくたのはずの息子は、初めて経験する寒さに衝撃を受けたのか、それとも焦る親の気持ちを慮っているのか、ギャーの一つも言わずに首尾の悪い親の迷走についてくる。ほっぺに手を当てて顔の痛みを和らげながら。
10時過ぎにホテルに着くと更なるトラブル。early checkinを予約していたのに、15時まで部屋は空かない、スイートルームなら空いている、安くしておくからどうだ、と。24時間近い旅の挙句凍えきっている家族をあと5時間も待たせられるはずがないじゃないか。この時、昔フランスのホテルで従業員に強硬なクレームを言って、うちら家族に「感じ悪い」と背面から攻撃を喰らっていた親父の姿を思い出した俺は親孝行だよね。信じられないくらい広いスイートルームについてからも、空港職員にロックされたスーツケースが開かなくなるという悲劇があったんだけど、これもホテルの従業員を呼んでペンチで引きちぎってもらいましたよ、チップ多めに渡してね。安堵した家族を見て、パタンキュー、翌朝2時まで爆睡。