イワシの捌き方はお義母さんから教えてもらった。親指と人差し指の爪を立てて、エラのくぼみにさし込み頭部を引き千切る。背骨の端が露出するので、それを掴んで尻尾まで剥がすと、左右に分かれた胴部が現れる。その隙間に指を突っ込んで内臓を一気に掻き出す。
朝、甥のお父さんと和歌山市内で落ち合って田ノ浦という漁港まで、うちらとしては初めての海釣りに連れていってもらった。クーラーボックスで持ち帰り、すぐに作業に取り掛かったので身は新鮮だった。きれいな形をした内臓の各部位がシンクのアルミの上に積みあがった。
僕としてはとても楽しい作業だった。初めは指に力を込めることに抵抗もあり、出来上がった一枚一枚も不格好だったけど、イワシの身は柔らかくて、慣れると面白いように作業が進んだ。それが自分たちに手になる獲物だという思いも充実感に一役買った。海の恩恵から拝借した生命を、その日のうちに料理して食べられることの有難さ。魚の血で手を汚すときに湧いてくるある種の責任と、一抹の後ろめたさ。こういう表裏一体の現実が生きるという営為なのだという物語を快く脳内にめぐらせている自分がいた。
実際にそう思ったのだ。甥のお父さんから手取り足取り教えてもらいながら、四時間粘って釣ったイワシは181匹。数こそ多いように見えるけど、捌かれた身を並べてみると家族の二食分程度にしかならない。しかもイワシ以外の魚は一匹も釣れなかった。スーパーに一匹何百円で売られている立派な魚の捕獲を仕事にすることが、一体どれほどの技術と労力を要するものなのか、それまで考えたこともなかったと思った。釣りに連れていってもらえると決まって親が喜んだのも、こういう深い体験を通して子どもが何かを感じてくれるという腹心があってのことだったのだと思う。
たぶん、たった一日の体験で僕がなぞったそういう生命倫理のようなものは底の浅いものであって、しかも真実の一端をかすめているだけに、それだけ固く息苦しいものであっただろう。少なくとも、事ある毎に水槽をのぞき込み、「まだ生きてる」、「もう死んだ」、「あ、まだ動いてる!」だの気にしていた君にとってみれば。竿を伸ばすときに針が手に刺さった痛みを覚えている、まだ魚のように柔らかい肌をもった存在であってみれば。
「無理に食べなくてもいいよ。〇君ががんばって沢山釣ってくれたおかげで今日は買い物もしないで夕食ができたんだから。釣ってくれただけで十分だよ。ありがとう」
妻のその言葉が、固まっていた何かをほぐしたのかもしれない。それまで捌こうともせず、橋を握ろうともしなかった手がおそるおそる手を伸ばす。
「うまッ」
お義母さんが腕を振るってくれた天ぷらと、梅で和えた煮物は、実際、本当においしかった。